佐賀県武雄市朝日町中野の磐井八幡宮に行って来ました。
筑紫君磐井が砦を作っていた場所に龍造寺家信が神社を建て応神天皇を祀る。
場所
どういう場所に砦を築いたのか確認しておきます。
武雄市の北。山越えて伊万里に抜ける入口。伊万里の腰岳で黒曜石が採れるので古くから使っていたルートなのかな?
西に川良という地名がある。甘久はアマグと読む。ウマシマジの甘や武内宿禰の弟の甘美内宿禰が連想されます。
伊万里方面へ向かう途中の右側にある低丘陵。
鳥居向かって右手
鳥居向かって左手
「謹按○○家二十世伯耆守家信公勧請鶴岡八幡宮之霊而鎮座于磐井城跡奉祀甚謹爲於今三百年我家中興六郎左衛門将義自主家鍋島氏出而家門大振なんちゃらかんちゃら」
○○家(←読めない)二十世伯耆守家信とは1563年生まれの肥前後藤氏・龍造寺隆信の子、龍造寺家信のこと。筑紫君磐井の作った磐井の砦跡に鶴岡八幡宮から分霊を勧請した。その後の文は読めない、意味わからない。
光の反射のため斜めから撮影
中野地区は中野後藤氏の居館で北の防衛拠点として機能していた。
毎年秋の彼岸の中日には国指定重要無形民俗文化財「武雄の荒踊」が中野区民により奉納されます。「武雄の荒踊」は戦国時代に戦勝祝いに足軽たちが即興的に踊ったのが始まりとされる。
先に進みます。
砦・城跡なので神籠石的な石垣でもないかな?とキョロキョロしながら歩いている。
鳥居から徒歩で3分ぐらいかな、階段が見えた。
後ろを振り返ると
どなたかいらっしゃいます。
弘法大師空海。1100年祭記念。
空海(佐伯氏)の母は物部氏だったっけ。
磐井の砦
肥前国の一拠点として524年に造られたと伝わる。
中野後藤氏
塚崎(武雄)城主第7代後藤政明は次男十郎定明へ中野村を分与し磐井城を築き、中野後藤氏としてここに館を建て居住させました。
中野後藤氏の子孫は幾変遷を経て第19代正宗の時明治維新を迎えた。
第8代秀明の孫清明は佐賀鍋島直茂の家臣となりました。
佐賀葉隠論語の著者山本神右衛門常朝の祖父にあたります。
磐井八幡宮
祭神 応神天皇 武の神
天正5年(1577)竜造寺隆信の三男家信は武雄領主第20代として佐賀より入城するにあたり、佐賀竜造寺八幡宮の分霊を磐井八幡宮として奉祀しました。
海童神社
祭神 海の神 水害を除き雨乞いの神様
もと八竜(真言林の北)にまつられていましたが、原口のお伊勢様に移し、大正5年ごろ再び移しまつられました。
奥羽凱旋碑
藩政時代中野村には二組50人の足軽が佐賀川古方面の備えとして配置されていました。
中野組足軽は明治元年6月奥羽地方へ鍋島茂昌公に従軍、11月に無事凱旋できましたので神前に石灯籠を奉納し凱旋碑を建てました。
階段左手に仏さまご休憩
神紋や家紋らしきものは見つけられず。
以上です。大変興味深い神社。
関連リンク
武家家伝_肥前後藤氏
後藤氏の「後」は藤原氏が肥後に移って名乗った「後藤」が始まりといい、その末裔が肥前に。河内国と関係があったらしい。
藤原利仁 - Wikipedia
「秦豊国」なる国が出ている。越前。秦王国が続いていた?マジか…
これは日本史の常識?