chayarokurokuroの雑記ブログ

読書記録、書評、歴史(九州倭国説)など

四道将軍/装飾古墳/石人石馬/丈部/雄略/九州倭国の勢力について

妄想断片書き散らかし。

527年か528年にヤマト王権に乱(磐井の乱)を起こしたとされる筑紫君磐井は、九州王朝倭国説の一部によると彼こそが倭国の王だったとする。
磐井(竺紫君石井)の墓は福岡南部の八女古墳群の中にある北部九州最大級の前方後円墳である岩戸山古墳だと現在比定されている。この近辺に山門という場所があることから、邪馬台国は八女にあったのではないかという説が江戸時代の有名な国学者らによって唱えられてきた。
磐井の勢力とおぼしき福岡と熊本の古墳は阿蘇火山岩を削って作った石人石馬という彫刻が配置されており、他に大分や鳥取にもあったと思う。その他の特徴として装飾古墳がある。装飾古墳は4~7世紀に主に九州で作られる。全国600基の内340基が九州、残りが中国関西関東東北。
分布図
装飾古墳分布図
非常に偏っている。九州の装飾古墳文化がなぜ関東や東北陸奥やらに飛んで分布しているのか。岩手や福島などに磐井という地名が残っているのも気になる。

さて、第10代の天皇崇神天皇といい、実在するならたぶん卑弥呼がいた頃の240年頃か。ハツクニシラスという「最初の天皇」を意味する不可思議な名前を持つ。またはミマキイリヒコイニエ。ミマキは御間城などと書く。たぶん朝鮮のミマナや久留米の三潴の水沼君と関係ある。ちなみに久留米の水天宮の神主は真木氏。幕末明治期の尊皇運動でも活躍する人物がいる。さて、この崇神天皇四道将軍というのを日本各地に向かわせ勢力拡大を計った。
四道将軍の派遣先
四道将軍
九州、四国、島根鳥取、奈良和歌山、東北北部を除いた海岸沿い。崇神が九州を攻めなかったのは九州出身者か九州が既に勢力下にあったからだろうか。
個人的に、卑弥呼の後継者の臺与か何かを連れて九州から奈良の辺りに遷都し、伊勢神宮(元伊勢)を作ったのが崇神じゃないかと思う。

一般的に(天皇カルト的に)、ヤマト王権が全国を統一した王朝であったとする証拠の一つとして、埼玉県行田の稲荷山古墳と熊本県玉名の江田船山古墳から出た鉄剣に雄略天皇の名前を示す「獲加多支鹵(ワカタケル)」の文字が掘ってあったからだとするものがある。熊本の方は途中の文字が判読不明で「獲(に似た文字)」と「鹵」からワカタケルを指しているとする。雄略の生存時期は推定で西暦418~479年(Wikipedia)。倭の五王の時代で、中国等の文献に外交文書など全く証拠らしいものが残っていない。雄略天皇の別名のひとつ、大泊瀬幼武。オオハツセワカタケ。即位前の天皇(当時は天皇という称号は存在しない)には「命」をつける風習に反して「王」とつけられている。一族として認めていない事を意味するのか。泊瀬を長谷とも書く。ハセ。

丈部(はせつかべ)という職業部がある。出雲の辺りと関東東北に主に偏って分布しているらしく、埼玉県行田の稲荷山古墳の鉄剣銘文にある「杖刀人」はこの丈部を指している説。軍事士族らしい。安倍氏もこの丈部氏と関係を疑われている。ワカタケル自体が四道将軍的な関東陸奥東海道征伐の物部軍団隊長だったんじゃないか。そうすれば後の装飾古墳の変に偏った分布や丈部氏の偏った分布も熊本の江田船山古墳との関連も九州倭国説的に説明が出来ないか。

安曇族なるものがいつ頃からあるのかわからないが、本拠地の主力候補は海の中道がある辺り、志賀島住吉神社とかもそうですかね。長野にも安曇野という地名があるし、渥美や熱海なども安曇から来ているというし、石器縄文時代の黒曜石の拡散具合とか見ると意外に大昔から盛んな海上交通や貿易をやっていたか。それが安曇族だったかはわからない。
筑紫君磐井は安曇族とか若しくは新興勢力の宗像族だとか言われている。神功皇后に土蜘蛛として成敗される八女の田油津姫なるおばちゃんも安曇か宗像族で、先祖が三種の神器を所持するような人物であった。
天皇家の仕来たりは宗像族の物をそのまま使っているのが多いと宗像大社の資料館で言っていたが、天武天皇天皇というものを作った際に、嫁さんの一人が有力な宗像君だったからそうしたのか、畿内に昔から宗像族の仕来たりがあったのか。名前が大海人とか、いかにも海人っぽくておかしな点があるのはどういうわけだろうか。

崇峻天皇、第32代天皇。諱は泊瀬部。別名を長谷部若雀天皇欽明天皇の第12皇子。またハセツカベみたいな名前の天皇。欽明は磐井の乱後に即位した継体の皇子。推定553年生まれで大臣蘇我馬子の推薦により即位するも592年に馬子の命により暗殺。蘇我馬子は嶋大臣と呼ばれた。唐津生まれの百済王、武寧王も嶋君と呼ばれた。武寧王磐井の乱の数年前の523年ぐらいに亡くなっている。
蘇我馬子は対立していた物部守屋を殺害、物部氏はその後衰退。生き残った守屋の子らは福岡の鞍手と長崎の松浦に流した。鞍手は磐井の孫の筑紫君鞍橋(くらじ)から来ている説あり。先代旧事本紀的に物部八十軍団は遠賀川から奈良の三輪山に移っていたが、本部は筑紫君が押さえていたのではないか。だが物部麁鹿火が筑紫君にあらがった。アラカイなだけに。馬子が物部守屋の子どもを鞍手や松浦に返したのは故郷に返したんだな、知らんけど。磐井をヤッてしまった物部を滅ぼした蘇我氏は、ある意味復讐したのか。
宮地嶽神社は磐井の子孫と神功皇后を祀っているが、神社内に宮地嶽古墳がある。小さい円墳ですが石室が22メートルもあって蘇我氏の古墳といわれる石舞台古墳より大きい。近年に地震で剥き出しになった所を掘ったら古墳だと分かったらしいが、そこからの埋葬品が超トップクラスの大王級しか持たない物がザクザク。宗像大社が海の正倉院と言われるのに対してこちらは地下の正倉院と呼ばれる。