chayarokurokuroの雑記ブログ

読書記録、書評、歴史(九州倭国説)など

日向三代/吾田津姫/垂仁/出雲振根/武沼河別/大友島津九州宇都宮氏

妄想断片書き散らかしますばい。

昔読んだのでタイトルも忘れたが宮台真司の本だったと思う。彼がいうには、皇室の正式な伝記は古事記日本書紀という事になっているので、科学如何に関わらず文面通りに内容を受け止めているのだとか。 つまり、欠史八代のように実在が怪しいとか年齢が異常に長いとかそのような不自然なものもガン無視してその通りに信じる事に一応表向きはなっていると。
とりあえず古事記日本書紀卑弥呼など出てきませんので皇室的には無関係なわけです。
仏教や儒教創始者が紀元前500年頃の人物なので、それらを日本に輸入する際に王家との歴史のバランスをとる為に藤原不比等かその前の時代の賢い人らが色々こねくり回したんだろう。また権力争いも鬱陶しいんで一家が大昔から世襲してるんだという風に統一させたのだろうと思う。

最初の王という意味のハツクニシラスを名を持つ第10代崇神天皇は実在すれば恐らく卑弥呼の同時代の人物。卑弥呼が死んだ後に一度男の王を立てるのだが皆の衆が納得せず戦になった。それで臺与という女の子を王にする。たぶんこの女性は病気で早死にした。
第11代天皇垂仁天皇、別名をイクメイリヒコイサチ。イクメは活目とか伊久米とか書く。この時期の天皇の名前にはイリヒコというのが付くので、統一王朝を認めない派からはイリ王朝だとか呼ばれることがある。ちなみに名前に五十がつく王朝は何だろう。五十でイとかイソとか読む。イニエとかイサチのイ。イソタケルとか五十鈴とかも五十がつく。磯城のイソキ(イキ、シキ)も元は五十か?
卑弥呼は一大率という武力集団を率いて各国に睨みを効かせていた。一大は壱岐国のことか。縦書きすると天という字になる。
さて、イリヒコのイリは西という意味もある。漢字で入彦とか伊理毘古とか書く。垂仁=イクメは10代崇神とその嫁の御間城姫の第3子となっているが実在が怪しまれている。このイクメ天皇伊勢神宮を建てたようなことが書いてありますね。どうなんだろう。

宮崎市に生目古墳群というのがある。名前が凄い。イキメ。イクメイリヒコにもろに関係ありげな名前。3世紀後半ぐらいから作られ始めた、古墳時代初期の時代で最大規模という。生目古墳1号基はなんと奈良の箸墓古墳の2分の1の相似形だとする説がある。相似形の古墳を相似墳という。夫婦だとか外戚とか、かなり強い関連を持つ人物同士の古墳を示しており、そんなに沢山あるものでもなさそうなだけに古墳を見る際の注目すべき重要ポイントになる。
驚く事に、筑紫君磐井の福岡県八女の岩戸山古墳と、継体天皇の本当の古墳だと巷に言われている大阪府高槻市の今城塚古墳は相似墳だという。今城塚古墳の石棺は熊本県宇土の馬門で採れる阿蘇ピンク石を使って作られており、また八女の岩戸山古墳の資料館で訊いたのだが、磐井と継体の使っていた紋章が同じだと。そんな紋章があるのか、実物を確認したわけではないので不確かだが、継体という名前も含めて非常にただならぬ関係がありそうではある。わざわざ熊本からなぜ運んだのか。馬門はマカドと読むがミカドに似ていないか。など。
九州のヘソは鳥栖か久留米だ。陸を北に行けば福岡北九州、東に大分、南に熊本鹿児島、西に佐賀長崎。だが交通は基本海だ。安上がり。鳥栖久留米あたりから宮崎は陸で行くのはマジに遠い。熊本からでも激しく険しい山を越えなきゃならない。海上を大分回りで下るか鹿児島回りで上るかが楽だ。

話を戻しまして、今城塚古墳のある高槻市槇原敬之の出身地だそうですが、地名の由来は神武天皇が長脛彦に苦戦していた時の道臣(大伴氏祖)と可美真手(物部氏祖)が率いる東征軍が挙げていた旗が月のシンボルだったからだとの一説。勝利の褒美にこの二人に高槻の地を与えたのだという。
月と言えば月読みの月ですかね。イザナギイザナミのゾンビに追っかけられた後に禊をやる。その時にアマテラスやスサノオと一緒に月読も生まれるのですが、ほとんど存在感がない。夜を請け負う役割だからか。暦の研究者か何かでしょうか。

初代天皇とされる神武天皇の名前は別名カンヤマトイワレビコ、またの名でワカミケヌ、若御毛沼。先祖三代を天孫降臨したニニギを初代として日向三代と呼ぶ。ニニギーホオリーウガヤフキアエズウガヤフキアエズの子どもの一人がイワレビコ神武で、兄弟で日向(宮崎?)を出て大分の宇佐、関門海峡通って遠賀、また関門海峡を戻って山口、広島、岡山、大阪、紀伊半島回って熊野で上陸、吉野、宇陀、橿原で終点。数十年掛かった?
立ち寄った何とかの宮は全て水銀の産地だという説がありまして、水銀は不老不死の薬や象徴として大変希少価値のあるものだとされ、古代中国の歴史書にも水銀でボロ儲けした話が出てきます。位の高い人物の古墳の内部に使用されています。また水銀の採れる場所は金も取れる。丹という字の付く地名がかつてそのような場所であったという。

日向三代の初代ニニギの嫁さんをコノハナサクヤヒメといい、またの名を吾田津姫という。大山積神の娘とされている。コノハナサクヤヒメの別名にアタが付くので宮崎の吾田か鹿児島の阿多のことなんだろうし、日向に天孫降臨したニニギがそこで見つけた娘さんだからそこの住民なのだろうが、なぜ大山積神の独身娘が南九州に居るのか。大山積神社の総本山は四国の愛媛県今治市だとされる。四道将軍が四国に派遣されていない理由はこの辺にあるのか。

崇神天皇はとある神宝を出雲大神の宮が所有していると聞き付け、武将を出雲大神の宮の長である出雲振根のもとへ使いに出す。この出雲振根の別名がなんと阿多命。
出雲振根は筑紫国へ行っており留守だというので、その弟の飯入根に頼んでまんまと奪うことに成功する。出雲振根は九州から戻ると、弟が無断で神宝を渡していた。振根はその事に対して数年経っても怒りが収まらず、結局弟の飯入根を切り殺してしまう。飯入根の遺族が切り殺されたことを崇神を訴えると、四道将軍東海道方面隊長の建沼河別命と中国方面の吉備津彦が出雲振根を切り殺す。出雲の乗っ取りの経緯か。出雲大社は最近まで杵築大社などと呼ばれていたようだが、杵築は大分県にある地名で、どういう関係があったんだろう?

元寇の頃の防人には関東武士団が多く派遣されたという。大分の大友氏は元は神奈川県の相模にいてり、なぜか豊前豊後兼鎮西奉行として大分に来た鎌倉守護大名で後に筑後守護にもなる。官位は左近将監。立花宗茂も左近将監だ。関ヶ原で西軍についた為に改易され福島県の棚倉に移されるが、元の筑後に戻されて柳川藩初代藩主。九州と東北はここでも繋がる。宗茂の実父は高橋紹運。高橋って名字っぽい名前は大変古くからあるそうで、埼玉県行田の稲荷山古墳の鉄剣銘文にも出てくる。膳部の大伴氏で、後に安曇氏と衝突した。なんと伊予高橋郷=愛媛の今治の大宅氏の一部も高橋氏を称したとある。大山積の本家が繋がってくる。大蔵氏の流れにもある。大宰府の金庫番の親分みたいな役割かなにかしていた東漢氏だったかな。
薩摩の島津氏も元は鎌倉にいた東国武家だそうで、近衛家の荘園経営を任されて薩摩に来た鎌倉後家人。
筑紫、筑後、大分には城井氏や蒲池氏、西牟田氏など宇都宮氏が入る。
支配のために無関係な人物らを無関係な場所に配置しないと思う。ブリジストンの石橋家の繋がりで鳩山弟の選挙区を久留米に移すみたいに、何らかの縁が要る。
薩摩や吾田の隼人は早くから畿内の何らかの王権の核やその一部となったかそれらの親衛隊か、大友はもしや大伴繋がり、関東陸奥の装飾古墳や丈部氏繋がり、宇都宮氏は毛野氏の後?大彦とかの子孫なのかな?中原某が物部八十軍団本拠地みたいな筑豊のアレな場所に移され、のちに九州武士団統括役になっている。