chayarokurokuroの雑記ブログ

読書記録、書評、歴史(九州倭国説)など

九州倭国の伊都長官と新唐書の筑紫城

今回も妄想。
こちらのページ新唐書の倭についてのことが読める。以下のように書かれている。

其官十有二等。其王姓阿每氏,自言初主號天御中主,至彥瀲,凡三十二世,皆以「尊」爲號,居築紫城。彥瀲子神武立,更以「天皇」爲號,徙治大和州。次曰綏靖,次安寧,次懿德,次孝昭,次天安,次孝靈,次孝元,次開化,次崇神,次垂仁,次景行,次成務,次仲哀。仲哀死,以開化曾孫女神功爲王。次應神,次仁德,次履中,次反正,次允恭,次安康,次雄略,次清寧,次顯宗,次仁賢,次武烈,次繼體,次安閒,次宣化,次欽明。欽明之十一年,直梁承聖元年。次海達。次用明,亦曰目多利思比孤,直隋開皇末,始與中國通。次崇峻。崇峻死,欽明之孫女雄古立。次舒明,次皇極。其俗椎髻,無冠帶,跣以行,幅巾蔽後,貴者冒錦;婦人衣純色裙,長腰襦,結髮於後。至煬帝,賜其民錦線冠,飾以金玉,文布爲衣,左右佩銀蘤長八寸,以多少明貴賤。


唐書なので、内容は遣唐使か若しくはそれ以前のヤマト王権の外交官が中国に伝えた事を元に書いてあるのだろう。
(日本人が)自らいわく「初代を天御中主と号し、彥瀲(ヒコナギサ。ウガヤフキアエズのこと)まで32世、皆「尊」と号し、筑紫城に居た。神武から天皇という呼び名に変えて大和州で治めている。」と。

つまり神武は33代目の倭の王で、大和州に遷都するまでは筑紫城に王朝があったんですよと自分で言っていることになる。しかし古事記にも日本書紀にも、32代の事や筑紫城の事が何故か書かれていない。
恐らく藤原不比等ヤマト王権に都合よく書き換えた歴史であろうはずことを自ら中国に伝えておきながら、更に神武の前のことや筑紫のことを抹消したのはどういうわけだったのか。



帯方郡など海外からの使者は伊都(たぶん福岡の糸島)に来るようになっていたらしいが、伊都国長官の役職名か実名が爾支という。ニシと読むとする。漢字で西と書いて更にイリと読む。
入彦のイリは爾支か説緊急大浮上。
ミマキイリヒコやイクメイリヒコのイリは伊都国長官名の爾支を指しているのではないか。
もっというと、物部祖のニギハヤヒ日向三代のニニギのニギも爾支を指しているのでは。
五十をイトと読めば、更に筑紫臭アップ。
追記
辰韓(新羅)の王を居西干(きょせいがん)とか尼師今(にしきん)とか言うが、爾支やイリをニシキンと関連付けている説もあるようです。筑紫を白日別と言ったりするし九州生まれの辰韓王も居たみたいなので(脱解尼師今、初代もという説もあるw)深い仲だったのだろう。豪族同士の親戚とか亡命とか。現在の感覚からすれば朝鮮は外国だが、四国と九州ぐらいの感覚だったのかもしれん。スサノオも神武の兄貴も大国主の国政を手伝ったスクナヒコナも韓国へ焼き肉食べに行く感じでサラッと常世国(朝鮮)に渡りますし、その後の葛城・蘇我・紀・穂積氏なども一体ナニ人なのかって感じですし。
ところで今昔物語や竹取物語の「今は昔、」という始まり方だが、辰韓の王族ナンチャラ尼師今の姓が「昔」氏なのだそうで。今は昔…竹取の竹は筑紫の竹で、讃岐の国造であらせられたじい様のご先祖は筑紫城で王をしていた人物を匂わしているのでは…追記終わり

弥生時代、九州の物部八十軍団は遠賀川式土器を広めつつ拡がっていった主体だったのだろう。奈良にいた長脛彦はニギハヤヒら物部の先発の族で、新参の神武(かまたは崇神か)と戦をする。その時に神武を手伝った高倉下は高倉健の先祖で、いや違う、やっぱ剣を持ってるんで北九州の鞍手の熱田の物部の族なんでしょう。知らんけど。