chayarokurokuroの雑記ブログ

読書記録、書評、歴史(九州王朝)など

古田史学の会編『倭国古伝』ほか、九州王朝説本

日本古代史を幾つか読んだ。妄想怪珍をば。

  • 九州王朝説系
    • 古田史学の会編『倭国古伝』明石書店
    • 合田洋一『葬られた驚愕の古代史』創風社出版
    • 九州古代史の会編『古代史シンポジウム「磐井の乱」とは何か』同時代社



  • 邪馬台国九州説
    • 久米雅雄監修『松本清張 <倭と古代アジア>史考』アーツアンドクラフツ





古田史学九州王朝説本。
王朝と言うからには民や他国から外交の相手としてなにがしかの権利や権力を有する国の存在とか、そこのリーダーは王として周囲に認識されていなければならないんだろう。中国の三国志袁術などは皇帝を名乗っていたようですが正統なものとはされていないようだし、劉備にしても後漢の末裔で正統性があるのだと主張するし、一体誰がその正統性を保証するんだろうか。
ヤマト王権なるものや九州王朝説は、どちらも確かな証拠らしいものが文献も考古学の物的証拠も乏しいかな。そもそも記紀の登場人物が架空とされたり家系図も怪しい。魏史が言うように日本列島には100余国あり、各地の大王・豪族の実績を天皇家の実績として全て取り込んで纏めて記紀を書いたのだろうと思う。
歴史は、特に日本古代史の場合は、与えられた積み木で家を作って「ほら見ろ、家が出来ると言っただろう!」、かたや車を作って「だまらっしゃい。車に決まっているではないか!」と言い張るのを見せられる感じで不満が残るんですよね。
読み手としたら、それぞれの好き勝手な論が如何に説得力を持って組み立てられているかという所が鍵となるかと思います。
定説とはあくまでも有力な仮説かどうかで、また新たな証拠が出てくれば書き換えられる。

日本古代史に騎馬民族征服論という大胆な仮説があります。1960年代中頃に出された東大教授の江上波夫の説。いわゆる応神天皇の時代に古墳からの副葬品だとか出土品が騎馬民族的な物に突然変わっているので倭は騎馬民族に征服されたのではないかという。皇国史観で洗脳教育を受けた人達がまだ世の中に多かった時代ですから、(いわばある種の非国民的な)自説はどのような学問の方法により論拠を示しているのかを前置きで慎重に書いている。大野晋の日本語-タミル語起源説なども同様か。
学者としてそうした慎重な態度や学問に対する謙虚な姿勢が仮説の説得力にはとても大切なんだと感じるのですが、古田史学の会の本を読むと「仮に説が正しくとも、乱暴な説得方法で行うとブチ壊しにしかねないなぁ」という印象を受けます。
まず古田武彦の書物を読み彼の説が正しいとする前提の上で書かれてある。定説と随分異なる説を当たり前のように語られるとギョッとするんですよね。本来なら丁寧に説明すべき所をすっ飛ばし古田史学を知っている人にのみへの書かれ方で学問として無茶苦茶乱暴な印象を受けるし、何かイデオロギーの対決でもしてる政治か宗教論争みたいで気持ち悪さもある。つまり開かれていないんですよね。悪く言えば内輪ネタ。アマチュア歴史小説同人誌。正直、歴史学者古田武彦の面汚しに近いとさえも思う。
ですが、面白い(笑)。近畿ローカル中心で身内だけで固めた中央集権の古事記日本書紀を、あまり注目されていない地方の文書や言い伝え、歌に隠された意味などから全く異なる九州が舞台の筋書きに組み立て直しているのですから色々驚きがある。
というか、近畿の豪族や土地の幾つかは九州の豪族の親戚や飛び地や支店・拠点の可能性もあると考えるのが自然でしょ。近畿その他にも九州式の古墳があるんだから。九州VSヤマトみたいな、地域内が一枚岩で、列島を二分した勢力が対立していたと考えるのは不自然じゃないか。
ということで古田史学の会には願わくば、歴史の掘り起こしの役割として、そして説としても大変面白いので、もう少し学問の体を整えて頂きたいかなと。

松本清張の倭と古代アジア史考。
一言で「筆力」。読んでて飽きないし面白い。まさにプロの物書きという感じ。元新聞社社員でプロの小説家の清張は自らをアマチュアの歴史ファンと書いてますが、資料の集め方は当然のことながらその読み込みが玄人はだし。どういう読者層に向けて書いているのか、自分の立場は何処にあり、どういう仮説を上手く論理立てて説得力を持たせて行くのか。推理小説家として得意とする所でしょうか。
倭人伝が指し示す邪馬台国の場所について清張は、さすがに役人は太陽が昇る方角ぐらい分かるだろう、北部九州から南下してるんだから九州にあるはずだが具体的な地名までは分からない、としている。

磐井の乱関連本。
527-528年にヤマト王権が反乱を起こされた最初の乱ということで、712年に完成の古事記では「筑紫君磐井が言うこと聞かないから殺した」などとサラッと書いてあるだけですが、720年完成の日本書紀では三國志演技のように長々と細々した所まで物語られている。筑後国風土記では「ヤマトが突然攻めてきた。戦争になった。筑紫君磐井は上膳に逃げて行方不明」となっている。古田史学では磐井の乱はなかった説?

712年完成の古事記はほとんど読まれた形跡がなく存在も隠されていたようだが、日本書紀は720年の完成の翌年から朝廷で読書会に使われていたとのことで、官僚の語学や歴史教育の教科書代わりだったんでしょうか。天武天皇の命で作り始め、40年掛けて完成。
磐井の乱記紀完成の200年も前のことですが、日本書紀は創作意欲たくましく妙に生々しく書いている。
継体紀の最後に百済の書『百済本記』を引用して「天皇、皇太子、皇子が皆死んでしまった。事実の探りは後世の人に任せた」と唐突にメタ視点でわざわざ書いていて、これはただならぬ部分だと思わざるを得ない。
九州倭国の一部の立場だと筑紫君磐井こそが倭の王となるのでしょうか。九州は貿易の玄関口だし国防最前線でかなり重要な場所だし、そこを仕切っている筑紫君を6万人ものヤマト勢が本当に押し寄せて戦争したんだろうか?
当時の船は準構造船と言われる10人乗りほどだそうなので、近畿から九州に行くにも朝鮮に渡るにも6000艘は必要なわけで、木材や造船技術者、食糧や武器はどこで調達したのだろうか。
当時の朝鮮情勢において継体と筑紫君磐井が倭人側の重要な政策決定に関わっていたんだろうと思いますが、任那割譲問題の為に継体を擁立する理由があったのではないか。若しくは正当化するために越国の背景(ツヌガアラシト的な)が必要だったからとか。雄略が皇族をヌッ殺しまくったせいでではなくて。

任那割譲問題に関して物部麁鹿火は仮病で責任者を辞退し、大伴金村と穂積押山は百済から賄賂を貰っている噂が流れ、磐井は新羅から賄賂を貰っていたと、これも妙に生々しく政治的。
長門から東は朕が制し、西は麁鹿火にやろう」という継体のセリフは、筑紫君勢力は本州四国にも及んでいたことを示すと思う訳です。神籠石のある場所や四道将軍の派遣先を鑑みる。若しくは麁鹿火は鹿の火で阿曇の火君のことで、磐井の乱後の熊本勢の北上は九州内の内部抗争があったかまたは欠損を補ったかとも思える。
大伴金村を祀る金村神社は福岡の田川にある。磐井の逃げた上膳。葛城をカツキと読むと香月と書ける。熟田新北物部。雄略が葛城氏を滅ぼし云々は九州の香月氏と関係あるんじゃないか?
磐井「わが伴として一緒に釜の飯を食った仲ではないか。」云々という上から目線の言い方。近江毛野の毛野氏は群馬でしょ。クルマでしょ。久留米だ。大彦繋がり。車持氏は宗像氏。筑紫君磐井がヤマト王権に出仕していて顔見知りだった等と言う説は全く寝ぼけていて何の根拠もない。先祖が同じという意味か、または毛野は筑紫の配下だったから上から目線なのよ、知らんけど。

継体時代に築造と判明している古墳のサイズに関して、

  1. 大阪府高槻市(高槻は田臣の香月氏由来じゃね?物部)の今城塚古墳(真の継体の古墳説)
  2. 愛知県の断夫山古墳(熱田の新北物部じゃね?)
  3. 群馬県の七輿山古墳(クルマ!久留米!大彦!)
  4. 福岡県八女の岩戸山古墳(筑紫君磐井の古墳)


後期古墳時代なので古墳のサイズで権力勝負していたのかとか、全国一律で権力者の序列が決まっていたかどうかは知りませんけど、とりあえず磐井の墓は当時で全国4位。


磐井の乱白村江の戦いは間違いなく倭国(と日本=ヤマト)の時代のターニングポイント。150年ぐらい期間差がありますけど、これで決定的に何か変わったんだろう。



清家『埋葬からみた古墳時代
そもそもソース内容が創作かも知れない文献史学と違い、こちらは考古学調査から分かることを理論で説明付けしていくので、証拠がある分だけ安心感あります。どこの馬の骨だかわからん人物の墓を先祖のものだと言いはり学問を拒む抵抗勢力宮内庁と闘いながらの研究です。
古墳の埋葬原理という被葬者の人数や性別、年齢、被葬者どうしの関係などを研究したもので、母系・父系社会だとか文化の時代や地域における違いや移り変わりがわかるそうです。
日本の土壌は微生物が繁殖しやすい上に酸性で、石器時代縄文時代などの人骨が出てくることはかなり稀だと言われています。「骨まで溶けるような」とユーミンも歌っております。
石灰岩の土壌とか貝塚とかでコーティングされたりして条件がたまたま良かった場合に限られると別の本で読んだことがある。ちなみに貝塚から人骨が出るらしいが、それは縄文人は食人文化があったからだという説。2代目の綏靖天皇は1日に7人も召し上がりあそばされていたと、人を食ったような話しが記紀神道集に報告されております。どういう状況でその説話を挿入したのか知りたいものです。
で、古墳時代の人骨もあまり出る事がないらしい。近畿などは木棺が多いらしいですが、棺ごと腐ってしまって骨も溶ける。石棺の場合も組み立て式のだと水が入ったりしてアウト。くり抜き式の密閉度の高いやつはそれらに比べてまあまあ状態が良いと。普通に残ってるもんだと思っていたので意外。

古墳は大王や首長1人を埋葬の為に作るのかと思っていたがそれはほぼ稀で、大抵は2、3人とか複数で中心部に埋葬され、さらに斜面にも埋葬する場合があって、極端に多い例だと長野県の森将軍塚古墳で81基の埋葬が確認されているとか。
埋葬されている人物の性別も主な被葬者が女性であることは少なくなく、複数埋葬ではだいたい兄弟姉妹や親子の血縁関係で入り、夫婦で埋葬されるようになるのは6世紀になってからと。
性別の判定は副葬品からと、骨盤に妊娠痕という赤ちゃんの重みで靭帯が骨盤に食い込んで着く痕が残っている場合は出産・妊娠経験のある女性かどうかが分かると。この辺になると内容はほとんど医学ですかね。歯の形から遺伝を推測するだとかも結構微妙な感じ。
王朝交代説にも言及されている。謎の継体天皇はここでも活躍。今城塚古墳は少なくとも3人以上が埋葬されていると。奥さんも多いので、こういうのを文献と照らし合わせながら調べていくのは面白そう。