chayarokurokuroの雑記ブログ

読書記録、書評、歴史(九州倭国説)など

蟻臣とハエ姫と阿利斯登

西暦450年頃の天皇に顕宗・仁賢がいる。共に母親は草冠に夷と書いてハエと読み、ハエ姫という。ハエ姫の父は蟻臣という。蟻臣は葛城襲津彦の息子・葦田宿禰の子、という系譜がある。家系図づくりで困った時は必殺「葛城襲津彦」、必殺「武内宿禰」。
300年ぐらい生きさせても問題ない。

🐜🐜 有明海の周辺や佐賀長崎には「有」が付く地名がたくさんあります。有田、有馬、有川、有明、有喜、etc。🐜🐜
「蟻臣」のアリってこの「有」と関係あるんじゃないかと、ふと思った。武内宿禰はたぶん佐賀の武雄の木工所の棟梁なの。彼の母は福岡の小郡の豪族の娘さんで。それで武内宿禰は久留米の高良山辺りに居た。知らんけど。なので、武内宿禰や葛城氏の関係者にいる浮羽の人物っぽい的臣と同様、葦田は葦北で熊本の八代の人物じゃないのかと思ったわけです。

熊本の八代には火葦北君=刑部靫部阿利斯登(おさかべのゆげいありしと)というカッチョいい名前の親分がいました。6世紀。
アリシトアリ蟻臣「有」!!
アリじゃない?

有明海の勢力は南部から北上してきているそうで、筑後の筑紫君磐井とかも先祖の大部分はそこに繋がるのでしょう。これを欠史八代と言います(笑)。
この火葦北君=刑部靫部阿利斯登の息子の日羅は百済の高級官僚になっておりまして、彼は帰国後、百済に不利な政策を進めようとした為に難波で百済人に暗殺されて小郡に埋葬され、後に葦北に移されたという。その様なことまで記録に残っている。

火葦北君は先代旧事本紀によると、10代崇神天皇時代の四道将軍のひとりである吉備津彦の息子の三井根子命が12代景行天皇時代に祖に成ったとされているという。
吉備と熊本筑後の古墳は直弧文というデザインで共通点がアリ。

蟻臣の娘のハエ姫ですが、加羅諸国伴跛国(はへ)という国がありまして、そこの国王の娘か何かではなかろうかと思った。
当たり前ですけど豪族も王族も豪商も政略結婚をあっちこっちの国々相手でやる訳で、古代から朝鮮の弁韓などで鉄の採掘や市場取引をしていた倭人が現地妻のようなものを持ち親族もいると考えるのは自然かと思う。国内に限定する理由はない。

阿利斯登という人名は新羅の王族とか福井のツヌガアラシトとか同じようなのが何人も居るので役職名ではとする説もあるが、ともかく加羅任那百済新羅有明海連合は深い付き合いがこういう感じで在ったんじゃなかろうか。

加羅の建国者は古代インドのサータヴァーハナ朝(アーンドラ朝)の人だという伝承があるそうで、そこの王族の嫁が朝鮮の国に嫁ぐ話しも5、6世紀の記録に出て来ますけど、大野晋の日本語=タミル説などはそのサータヴァーハナ朝絡みの説話に刺激されたのか。



とりとめもないアリとハエの話しでした🐜