しめ縄(注連縄)は神社、自然の石や岩、大木、湧水、相撲取りの腰などに紙垂(しで)を付けて巻くもので、神が宿る印だとか結界を張ってある印だとされる。
しめ縄を特徴とした神社で、すぐ思い浮かぶのは島根の出雲大社ですかね。通常と巻き方が逆なんですと。出雲はいろいろ逆ですね。
それから福岡の宗像大社。そしてその南にある宮地嶽神社。宮地嶽神社は日本一の大しめ縄。巨大な鈴や太鼓もある。志賀島の阿曇族の本拠地の意地といった所でしょうか。
蛇足ですが(海神なだけに)、ここの大親分の阿曇磯良がゴーサインを出さなければ神功皇后の三韓征伐に船も出せないし軍も集められなかった。重要な場所かつ人物。
この阿曇磯良を祀るもうひとつの神社が有明海にある、福岡県大川市の風浪宮。こっちの方が古いのかもしれん。大川からちょっと海を北に行くと久留米の水天宮の総本宮。アメノミナカヌシを祀る。更に東に陸をちょっと行くと九州で一番大きい神社である高良大社。こっちはタカミムスビ(高木神)。秀吉が唐入りするときここに大集結して戦勝祈願した。
筑後には、記紀の神々のツートップを祀る巨大な神社が隣り合わせで固まってある。卑弥呼の邪馬台国の候補地や筑紫君磐井が注目される大きな理由の一つか。
ところで、隋書の東夷伝倭国条に、倭国では「文字を木に刻んだり縄を編んでその換わりにしている」と書かれてある。
文字を縄で表していたわけです。縄を編んで文字代わりにする文化は世界中にありますし、中国でも古くはそうしていた。
「契りを結ぶ」と言います。契約するとき縄を結んで記録したのだろう。相撲の「結びの一番」で陣取りの決着が付く。
タカミムスビとかのムスヒも「結び」なのだろう。
九州弁で「結ぶ」ことを「きびる」というんですけど、「吉備る」か。吉備と九州の倭は契りを結んだって意味を含めているんだろうか。直弧文、神籠石つながり。
しめ縄の「しめ」の語源はよく分かりませんが、福岡市のすぐ隣の糟屋郡志免町(しめ)の地名の由来は、
「隣町である宇美町にある宇美八幡宮の注連縄(しめなわ)が張られた土地であることから、志免の地名となった説がある。」志免町 Wikipedia。息長垂姫(神功)が誉田別(応神)を産んだ宇美の八幡宮と何かの契約があった。
脱線しまくり糟屋郡つながりで、
527年の磐井の乱で磐井の息子の「葛子」が命乞いにヤマト王権に糟屋屯倉を差し出した事になっている。
しかし、継体は「長門(山口県)から東は朕が制し、九州は物部麁鹿火が討って後は好きにしてよい」と言っているので、それが正しければ糟屋屯倉と九州または筑紫君のテリトリーは物部麁鹿火のモノになった筈。
糟屋屯倉の候補地は「鹿部田淵遺跡」(ししぶタブチいせき)か?と某有名歴史ブロガー。JR鹿児島本線の「ししぶ」駅近辺。「美明」という場所も直ぐ近くにありますね。美輪明宏みたいな地名。
さて、麁鹿火の「麁」は「しし」と読める。
先代旧事本紀に物部麁鹿火の前に物部至至連という人物がいます。515年頃。「ししぶ」は、「麁鹿火」と「至至」の「しし」かな。
麁鹿火の「麁」を「しし」と読もう。またはそのまま「あら」と読み、荒尾や荒木と繋げる。
麁鹿火の「鹿火」を火国の山鹿と繋げる。
磐井の乱は九州または倭国内での体制の変化があったのではないか。その他の不審点や疑問を列挙する。
- 磐井の乱後の筑後は征服されたような痕跡もないこと
- 磐井の息子の葛子が命乞いに屯倉をたった一つ渡しただけで済んでいること
- 筑紫君と同族の火君が北上しているようなこと
- 継体天皇の真の古墳説のある大阪府高槻市の今城塚古墳が熊本と関わっていること
- 継体天皇の後から「檜隈」という熊本臭い御陵が登場すること
- 佐賀県神埼にも「日ノ隈」という場所があること
- そもそも継体の正体が不明
- 近江毛野臣は正体不明で古事記に出てこない
- 上毛野君稚子は白村江で活躍する
- 毛野君は筑紫君磐井と阿倍氏と同じく大彦の末裔とされる
- 岩手県にある磐井郡という地名と、磐井の乱前後になぜか九州式でモロに肥筑風装飾古墳が東北磐井郡の南部に出現
- 磐井の乱の直ぐ後に武蔵国造の乱が起きること
- 磐井の子孫という宮地嶽神社の勝村・勝頼は阿倍某の名を持つらしいこと
- 筑紫君磐井も阿倍の名を持つらしいこと
- 筑紫君磐井と阿倍氏は大彦の子孫とされること
- 大彦は崇神天皇の皇后の御間城姫の父であること
- 崇神が卑弥呼時代で、邪馬台国の有力候補地に筑後があること
- 卑弥呼の墓とされる奈良県桜井市の箸墓古墳は崇神時代の古墳とされること
- 桜井市に阿倍の地名があること
- 記紀では阿曇氏と阿倍氏がセットで高頻度に登場すること
- 桜井市は大和川の三角洲地帯に位置し、北に三輪山があり背後を突かれ難い地形
- 桜井市の大和川上流にハセツカベ的な長谷寺がある(家康における甲州街道の八王子の役目)
- 長谷寺の更に上流の宇陀で丹砂が採れそう
- 筑紫君磐井の孫という筑紫君鞍橋は554年に百済で活躍
- 筑紫君鞍橋は福岡県鞍手郡の鞍橋神社の由来
- 桜井市にも倉橋という地名がある
- 朝倉まである
- 阿倍氏は東北に行く
- 清原氏に負けて九州に帰って来たりする
- クスリの取締法違反で安倍は清原氏へ雪上を果たす
- 阿倍氏は阿曇氏と白村江にも行く
- 中国にも行って科挙に受かる
- 阿倍(そらんじる)という名前のわりにはプロンプターをカンニング
- 以外と阿倍だけは詔を言えない
- 阿倍は阿閇とも書き、(あへ、あえ)とも読む
- アマタラシヒコ阿輩キミは「云々」
- 福岡の宮地嶽神社の近くに阿江という地名がある
- 記紀を作らせ始めた天武(大海人)天皇はモロに海人な名前
- 天武の嫁さんの一人に宗像大社の関係
- 阿倍一族は熊本藩で滅びたりする
- 古事記を完成させ風土記の編纂を始めた元明天皇の諱は阿閇、または阿倍
- 元明天皇は藤原不比等をお気に入り
- 中臣が藤原になる
- 宮地嶽神社の勝村・勝頼兄弟は藤高麿・藤助麿という名前を持つらしいこと
- 久留米の玉垂は別名に藤大臣、藤保連の説
- 藤井氏は渡来系の百済王族
- 磐井は朝鮮の全方位外交
- 朝鮮に巨大統一国家ができるのは筑紫にとって大きな脅威
- 高句麗的な石加工技術を持つ割には出土品は大加羅系が主という
- 安倍晋三とラサール石井
またまだ書くことあるけどこの辺で止めとこう。
太安麻呂は「夜須麿」ですかね、夜須町は筑紫のど真ん中。マロなので阿曇の海人族だろうか。倭国の記録を保管していた家系とかかな。
稗田阿礼は「火の江田」の阿礼さんですかね。熊本の山鹿の菊池の。江田船山古墳の辺りの住人で火国の歴史記録の保管する家系とかで。
九州を本拠地とする倭国の歴史を、奈良の桜井市の阿曇や阿倍の分家みたいなのが組み込んで作ったのが古事記であり、それをもっと脚色したのが日本書紀だろうと思う。景行天皇やヤマトタケルのような人物は架空だろうね。
磐井の乱も無かったか、もしくは倭国内部か筑後と熊本の内紛、または磐井の関東東北への移住と火君へのバトンタッチ。
8世紀ぐらいまではヤマト王権というものはなかったと思う。