- 陸奥国一宮 「都都古別神社」別名を八槻明神、近津明神(千勝明神)
- 福島県東白川郡棚倉町八槻字大宮
- 主祭神 味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)と、日本武尊
創建・由来
社記(慶長2年(1597年)の陸奥国一宮近津大明神縁起)によると、第12代景行天皇の時に皇子の日本武尊が奥羽に至り八溝山の東夷を討った際、日本武尊を守護した3神が建鉾山(福島県白河市表郷三森)に隠れたので、尊は東方に箭を放ち箭の着いた地(箭津幾:やつき)に神社を創建したという。そして源義家が奥州征伐に訪れた際に「千勝(近津)大明神」と改称したと伝える
「八槻」の地名の由来
地名の「八槻」の語源伝承は『陸奥国風土記』逸文(大善院旧記所引)にも見え、日本武尊が東夷征伐の際に放った八目鳴鏑(鏑矢)が落ちた地が「矢着」と称されたが神亀3年(726年)に「八槻」に改めたとし、別伝として日本武尊が放ち8人の土蜘蛛(在地首長)を貫いた8本の矢がいずれも槻の木になったので「八槻」になったともいう
何でも筑紫勢病脳のわたくしめからして福島県の棚倉と言えば直ぐ思い付くのは、剛勇鎮西一の戦国無双立花宗茂です。大分の大友宗麟の一門で、関ヶ原で西軍についたために改易されて陸奥国に飛ばされ棚倉藩主となりました。その後、また福岡県筑後の柳川藩主に戻ります。家康のご意見番のようなことをやっていた。
上記に、この棚倉の都都古別神社の地名「八槻」の由来は八目鳴鏑とある。
思いっきり八女に因んでそうじゃない?
筑紫発症脳的に…
ヤマトタケルが射った矢「八目鳴鏑」が着地した場所だから「矢着」。なまって「八槻」。
ヤマトタケルのモデルの1人として筑紫君磐井を充てると、筑後高橋氏の末裔の立花宗茂が棚倉に改易された縁がそこにあったとも思える。
縁もゆかりもない土地の藩主に無関係な人物を配置しないと思うのです。荒れる理由は極力減らしたい。
大分の大友氏自体が鎌倉御家人の近藤氏で、関東から守護大名として移ったのも古代からの縁があったからだろう。
大友氏の出身地とされる相模国足柄は、相武国造がヤマトタケルを火攻めする時に越えてきた足柄峠だろう、要所か。