chayarokurokuroの読書ブログ

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古田史学の会編『邪馬壹国の歴史学』ミネルヴァ書房

2016年3月30日初版。
いわゆる九州王朝説の代表的論者のひとりである古田武彦 - Wikipediaと古田史学の会のメンバーによる邪馬壹国論の総まとめ本。古田は2015年10月14日に逝去されている為、会員による師匠の追悼が込められている。
全体的な印象として、古田は相当負けず嫌い、我が強い。このぐらいパンチの効いた人物でないと変なカルトの圧力に負けてしまうね。学界を盛り上げるにはこうした人が必要でしょうね。

一般的に「邪馬台国」と漢字表記し「ヤマタイコク」などと呼ばれている国は、中国正史『三国志』の中の魏書第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条に出てくる、女王の卑弥呼が治める国です。
魏書では正しくは「邪馬国」と表記されている。「壹」は「壱」と同じで漢数字の「一」の意味です。
それ以外の中国正史で、卑弥呼の国を指して「壹」ではなく「」と書いたものがある。「臺」は「台」と同じ意味で、「壹」の書き間違えではないかとする説がある。
古田武彦はこの「壹」と「臺」の違いにこだわり、あくまでも「邪馬壹国(イチの方)」なのだと説く。
「ヤマト」でも「ヤマタイ」でもなく、「ヤマイチ」。山一証券のヤマイチ。
「イチ」の「」は「伊勢」などの「イ」と同様に神聖という意味の接頭語でアイヌ語などにも残っているとし、「」は「あしなづち」「やまたのおろち」「おおなむち」などの「チ」と同じく「神」の意味。こちらの「チ」に関しては学界でも承認された考え方という。



邪馬壹国のあった場所について、古田は博多湾岸としている。弥生時代初期以来、福岡県糸島や春日市の大王墓の出土品が他を全く寄せ付けない別格な豪華さ、矛の出土数量についても福岡は別格。
同じ福岡県でも筑紫朝倉や筑後山門も出土品がいまいちで候補地としてダメと。やはり博多湾岸なのだとしている。
ましてや畿内説の奈良は矛も鉄器も絹織物も、中国や朝鮮との交流の跡も何も全然全く出てこない。そういう訳で古田は「畿内説の学者はダメ、全く分かってない、皇国史観」と論外扱いします。

畿内説はあり得ないというのは同意します。外交能力がなかったと思う。争ったような感じもない。もっと言うと7、8世紀ぐらいにならないと奈良は中心的役割にならないと思う。奈良地方をヤマトと呼ぶのは倭人伝を読んだ記紀編集者が後付けで地名にしたとすら思う。卑弥呼が奈良に居たことにしないとヤマト王権なる幻は成り立ちません。若しくは卑弥呼や中国正史を完全に無視するか。まぁ無理筋だ。

卑弥呼」について古田は、読み方は一般的な「ヒミコ」ではなく、「ヒミカ」と説く。
筑紫君磐井の先祖に「甕依姫(みかよりひめ)」という人物が居たことが『筑後国風土記』に書かれてあり、(本書には出ていないが)古田九州王朝説では「卑弥呼」=「甕依姫」としているようです。甕依姫 - Wikipedia
甕(ミカ)は水瓶や甕棺(カメカン)のカメのことで、土器製の大きな器のこと。焼くのも技術が要るね。
また、甕棺の読み方ミカカが正しいと古田は主張する。

疑問点
古田説では邪馬壹国の場所を博多湾岸としている。倭人伝で国々までの距離を「里」と「日にち」で表記してありますが、『隋書』は「倭人は距離を測るすべを持たないので移動日数で表している」と言っており、日数表記は中国や帯方郡の役人が直接それらの国々に足を運んでいない為に倭人からの伝聞を書いているだろう。そうだとして、伊都国があったとされる糸島から博多湾など歩いて直ぐ行ける程度の距離で目と鼻の先、水行10日とか陸で1月とか書く必要がない。
博多湾岸は違うと思う。



本書から妄想を拡げる。
仮定ですが、たとえば倭国大乱を決着させたいなどの理由で、魏に外交ルートやコネクションを持つ人物がいる国を選ぶとする。それで卑弥呼を共立させた。つまり卑弥呼の国にはもともと魏に何等かのコネを持っていた人物が居たのだとします。

日本書紀神功皇后に討たれる田油津姫(たぶらつひめ)という土蜘蛛が出てくる。筑後の山門郡瀬高の辺りの人。
神功の時代は卑弥呼より100年ぐらい後だろうが、年代は無視する。
田油津姫の兄は夏羽という。夏羽を夏侯氏という事にする。また物部氏の祖のひとりに夏花という人物がいる。こちらも夏侯氏だとする。名前が似てるので次いでに夏羽夏花を同一人物としてしまう。別に同一視しなくてもいいが。
そうした場合、筑後の山門の田油津姫と夏羽の姉弟夏侯氏を先祖に持つ。曹魏夏侯氏。これで筑後山門と魏を繋げられる。

大国主が政治顧問として外国から少名彦名を側に置いていたように、夏侯氏が政治や軍事顧問として元々筑後の山門に住んでいたか、または邪馬壹国が筑後山門にあって親魏倭王になった関係で魏の夏侯氏が山門に移り住むことになったか等の理由をこじつければ、邪馬壹国=筑後山門説もそうそう変でもなく思えるが、どうでしょうか。



国会図書館に保存されている『松野連系図』には驚くべき事が書いてある。
松野氏 - Wikipediaの中でも周の王姓と同じ姫氏の松野氏がいるという。信長や秀吉の馬回り、小早川秀秋田中吉政らに仕えた松野重元(松野主馬)は筑後の瀬高(山門郡瀬高)の城主になる。
松野連系図』には驚くべき事に、倭の五王も、卑弥呼もそのの外交官として238年に魏に遣わされた難升米と、243年に派遣された掖邪狗も松野氏の家系図として載っている。日本武尊(ヤマトタケル)によって討たれる川上梟帥(カワカミタケル)取石鹿文(トリイシカヤ)という名前で。
ヤバい。ヤバすぎる。
卑弥呼やその外交官、倭国王の系譜を先祖に持つという松野主馬が筑後山門の城主になる意味がありそう。朝廷的に。
松野主馬は柳川藩田中吉政が2代目で改易になると駿府藩の徳川忠長の元に仕え、忠長が切腹させられると誰にも仕えず陸奥国白河に移って生涯を閉じたとか、または京都で亡くなったとか。
有明海装飾古墳の関東から陸奥の北上ルートと同じルートをここでも踏襲か。