- 中国の歴史書『新唐書』では、天御中主から彦渚(ウガヤフキアエズ)まで32世が筑紫城(九州)に居て、その後に大和州(奈良)に移ったとある。そして神武から皇極天皇までの天皇名を(でっち上げだろうけど)ズラリと列挙する。
- 712年成立の『古事記』と720年成立の『日本書紀』は初代神武天皇が九州から奈良に移り住んだことになっている。
- 中国正史の倭人条に登場する地名は伊都国(糸島)や末羅国(松浦)、阿蘇山など九州ばかりだ。
- とりあえず663年の白村江の戦いまで倭国は存在した。白村江は、倭国・百済連合軍 VS 唐・新羅連合軍だから。日本国ではなく倭国。
倭国が九州にあった事はそんなにおかしいことではない。わざわざ「九州王朝説」などと如何わしいかのような論を銘打たずとも、確かに九州に王朝はあった。弥生時代から白村江までは倭国(倭奴国)はずっと九州にあり、中国や朝鮮と外交していたのだ。
問題となるのは『旧唐書』です。倭国と日本国が並立して書かれてある。
「日本国は倭国の別種なり」と。「倭の字を嫌って日本に国号を改名した」または「元々小国だった日本が倭国の地を併合した」とも。
「日本人は尊大で、誠実に応えない」と。日本国は出自のあやしからん新興国なのでその様な態度なのだ。
日本国はいわゆる奈良のヤマト王権(大和朝廷)を指していることは明らかだろう。ヤマト王権(奈良)は断じて倭国では無い。倭国とは別種だからだ。または元は倭国内の小国に過ぎない。
従って邪馬台国は奈良ではあり得ない。そもそも奈良には鉄器も中国や朝鮮との外交を示す副葬品もろくに出ていない。
倭の五王は倭国の王だから、奈良のヤマト王権やらを幾ら引っ掻き回しても無関係であるし、百済王から倭王旨に贈られた七支刀は元々九州にあった筈だ。白村江以降に九州から天理の石上神社に移したか、もしかすると石上神社自体が倭国の東征の拠点として奈良に置いていた物部の奈良支店かだ。
いずれにしても、ヤマト王権とか大和朝廷なるものは、白村江の戦いまでは架空であるし、ましてや日本列島の国々をまとめる存在ではなかった。倭国が白村江で滅亡するか衰退するかして新興の日本国が併合しなければ。
前方後円墳がヤマト王権の許可制の古墳だの、ワカタケルの銘文からヤマト王権による集権体制があっただのは、全て嘘。
追記
福岡県みやま市瀬高の宇津羅姫。七支刀は瀬高にあったのか。高田行宮、卑弥呼の女山(ぞやま)。この辺はヤバい。
こうやの宮(磯上物部神社)「七支刀」でつながる奈良と鞍手と太神 : ひもろぎ逍遥