chayarokurokuroの雑記ブログ

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蘇我氏の正体。筑紫君と継体/メモ

蘇我氏は、527年の筑紫君磐井の乱の後に突如として現れる。
(追記 : 日本書紀の雄略9年に蘇我韓子新羅遠征の将軍として登場。勉強不足+いい加減で困る😓)
メモ。

天皇」の称号は、倭国が滅亡した白村江の戦い(663年)の後に登場する大海人(天武天皇)が最初に使い始めたと言われている。従って、それ以前には「天皇」という称号の人物は存在していない。
663年の白村江の戦いにより倭国が滅亡したので、倭国と別種ヤマト王権が国号を「日本国」として新興ジャパンを建国する。
そして天武天皇は日本史を作るよう命じる。それで出来たのが『古事記』(712年)と『日本書紀』(720年)です。
712年~720年の間に天皇をやっていたのは女帝「元明天皇」。諱を「阿閇」または「阿倍」という。
阿倍氏は従って、白村江の戦いの「倭国」と、このあとの新興「日本国」の両方に関わっています。
元明天皇の側近が藤原不比等記紀を読む際は、阿倍氏藤原氏が歴史を操作している可能性を十分に考慮しておく必要があるかと思う。

ところで、天武天皇のバックに居たのが九州の海人族宗像君でした。
宗像大社は福岡県の宗像地方にある。宗像は博多の北に位置します。博多湾は西にある糸島半島と「海の中道海浜公園」のある半島とその先にある志賀島が囲む形になっている。志賀島は古くからの海人族=安曇族の本拠地などとされる。「安曇」に関わる地名「安曇野」「熱海」「渥美」や伝承などが全国にあることがその活動範囲の広さと古さを物語っています。

海の中道海浜公園の半島の付け根に「ししぶ」という地名があります。最寄り駅はJR鹿児島本線の「ししぶ駅」。住所は福岡県古賀市美明」。
磐井の乱で、磐井の息子の葛子ヤマト王権(そんなもの存在しないだろう?)に命乞いに差し出したとされる糟屋の屯倉が、ここの場所「美明」ではないかとされ、「鹿部田渕遺跡(ししぶ・たぶち・いせき)」として調査されている。
日本書紀継体天皇のセリフで「長門から東は朕が制するので、西は物部麁鹿火(アラカイ)の好きにしてよいぞ」というようなものがあるが、このセリフによってししぶも、長門より西つまり九州も物部麁鹿火に所有権がある事にされた。
麁鹿火の「麁」は「シシ」とも読みます。
その他に「」とも読む。「麁鹿火」は「ソカヒ」と読める‼️
蘇我氏はここから出てくるのだ‼️



興奮を抑えつつ。
ししぶのちょっと北は住所が福岡県福津市津屋崎古墳群宮地嶽神社があるのですが、これらは筑紫君磐井の先祖や末裔に関係するといいます。
宮地嶽神社が奉っているのが神功皇后宮地嶽大明神=阿倍丞相と、勝村大神・勝頼大神の兄弟。丞相という大した称号とともに阿倍氏が登場する。
記紀ではたいてい、阿倍氏は安曇氏とセットで登場する気がしますが、安曇部のことを阿倍(安倍、安部等)という説があります。
阿倍氏の本拠地や出自が分かりにくいのは、彼らが海人族なので日本各地あっちこっち遠征や交易しまくっていたからだろうと思われる。

そして、津屋崎古墳群宮地嶽神社の北に、福岡県宗像市宗像大社があります。
宗像三女神やアマテラスで古さを醸しているが、実はかなり新興勢力なのではなかろうかと個人的に思う。



次、重要なポイント。
筑紫君磐井は『福岡県神社誌概論』という資料に「阿倍磐井」と書かれているという。驚きです。筑紫君磐井は阿倍氏でもあるのです。みんな安曇の海神一族。筑紫君磐井は博多湾から有明海大分県臼杵にも石人があるし豊国も抑えていたと記紀にありますので、筑前筑後肥前肥後、豊前豊後の広大なテリトリーを治める大権力者でした。関東東北にも九州式の装飾古墳がある。九州王朝倭国説の研究者が筑紫君を最重要視するわけです。

筑紫君磐井が楯突いたことにされているヤマト王権(存在しない)の天皇継体天皇で、越国の出身という。
白村江の戦いで登場する阿倍比羅夫越国守だとされていますが、継体の出身地である越国を支配するのが阿倍氏で、筑紫君も阿倍氏阿倍氏同士という事です。
琵琶湖に注ぐ安曇川。これも継体の拠点に繋がっているだろう。
磐井の乱は同族内での揉め事だったのだろうか。

更に、継体天皇の真の古墳とされる大阪府高槻市今城塚古墳の石棺は、熊本県宇土阿蘇ピンク石を使っていると言います。筑紫君の八女古墳群や熊本県の古墳は石人石馬と呼ばれる石の彫刻を古墳に配置させる変わった特徴があり、また筑紫君と火君は兄弟とも言います。こちらも同族。

アイヌ語で「」のことを「ape アペ」というそうだ。
アヘアエアベは「火の君」をも指しているか?
物部「麁鹿火」を「ソカヒ」と読むと「蘇我火」。蘇我氏の正体は火君の一族という事がこじつけられる。
熊本には阿蘇も居る。大変古い家系とされています。
蘇我」の「蘇」は、阿蘇の「蘇」か。
蘇我宗我と書く場合もある。この場合は宗像の「宗」と被る。

筑紫君磐井の末裔は、乱後も八女古墳群でそれまで通りに石人の彫刻を備えた古墳を作り続けている。
日本書紀で筑紫君は大悪党のように書かれてあるが、糟屋屯倉を差し出しただけのショボい処置。
本当に磐井の乱があったのかは怪しい。少なくともヤマト王権は存在しないので、全然関係無いと思う。甚だしい創作。

そろそろメモまとめ


どうやら「磐井の乱」の関係者がみんな安曇族・阿倍氏・福岡熊本の同族同士。
磐井の乱後に登場する蘇我氏と宗像君の正体を、物部麁鹿火と「蘇」繋がりでこじつけられる。以下。

  • 継体の古墳石棺と阿蘇ピンク石の越国と肥後国の関係。
  • 阿倍氏(比羅夫)と越国。
  • 筑紫君と火君は兄弟、または一族。
  • 麁鹿火はソカヒと読める。蘇我火。宗我火。
  • アイヌ語でアペは火の意味により、阿倍氏と火君の関係。

  • 蘇我氏と宗像君の正体は、火君。


そういう事になりました。誠にありがとうございました。



追記
戦国時代ですが、草刈氏が宗像氏を相続する。草壁氏や日下部氏は筑紫君が本拠地としていたとされる筑後高良大社神職。草野氏も筑後の有力氏族。
宗像氏が草を刈る。そういう意味を含んでるだろう。

追記2
兼川晋『百済の王統と日本の古代』物部麁鹿火=蘇我説を述べられているらしい。2009年初版本。



追記3

Twitterにてトンデモ認定人藤浪某氏より「火君」と「あへ、あべ」をアイヌ語をヒントに接続する妄想に対してトンデモ認定頂いたようです。物部世真古氏がこの投稿を引用したことに対する認定。ありがとうございます。


カムヤマトイワレビコやカムヤイミミの「カム、カミ」は漢字で「神」と書き、アイヌ語の「カムイ」と意味や音で共通しています。「アイヌ語の痕跡すらない九州」出身のそれら神々の名前にアイヌ語との共通性があることも気づかないほどの知性ではないでしょう。オタンチン呼ばわりするぐらいですから。
古代日本語を探る手段の一つとしてアイヌ語にあたるのはそこまで筋違いではなかろう。