遣隋使には不審点が幾つかあるとしばしば指摘されます。
次のような説を思いつきましたので開陳します。
遣隋使は、仮称「ヤマト王権」が「倭国」に成り済まし又は真似た国名で初めて中国にご挨拶に伺ったものだった。
犯人は蘇我氏。
なお、私の立場は以下。
ヤマト王権は九州に本拠地を置く倭国が白村江で大惨敗の後、壬申の乱や大化の改新を経て徐々に作られていった。
記紀の主な目的は、ヤマト王権が倭国を吸収合併し、倭国の歴史を削除し、仮称ヤマト王権が昔から代々畿内にあったことにする為に書かれた。
遣隋使とは
遣隋使(けんずいし)とは、推古朝の時代、倭国(俀國)が技術や制度を学ぶために隋に派遣した朝貢使のことをいう。600年(推古8年) - 618年(推古26年)の18年間に3回から5回派遣されている。なお、日本という名称が使用されたのは遣唐使からである。
倭の五王による南朝への奉献以来約1世紀を経て再開された遣隋使の目的は、東アジアの中心国・先進国である隋の文化の摂取が主であるが、朝鮮半島での新羅との関係を有利にするという、影響力維持の意図もあったが、倭の五王時代と違い、冊封を受けなかった。この外交方針は次の遣唐使の派遣にも引き継がれた。
遣隋使 - Wikipedia
国名の不審点
上記にあるように、国名は「俀國」となっていますが、これは「倭国」の書き間違えではなく、似た名前の国名を付けたか、倭国に成り済まして外交を行ったと思います。
この後も仮称ヤマト王権の国名は「大養徳国」(738年)、「大倭国」(747年)と迷走し、757年に「大和国」と改称してから、ようやくこれが一般化したようです。
王の性別の不審点
記紀によると当時の王は、女性である推古天皇のはずですが、隋書で遣隋使は俀国の王の名前を、姓を「阿毎」字を「多利思北孤」号を「阿輩雞彌」と、皇后の名前「雞彌」も添えて答えている。つまり男性。
俀国は男が王の国で、推古天皇とは違う別の国ということです。
『隋書』「東夷傳俀國傳」にある犯人の息子の名
「名太子為利歌彌多弗利」とある。為利歌彌多弗利を名前として読むとイリカミタフリなどと読める。
入鹿のことでは。
第二回遣隋使の小野妹子の中国名
小野妹子なる人物が第二回遣隋使。中国名を「蘇因高」という。蘇我氏だろう。
「隋書」に「阿蘇山」が出てくる。熊本県八代の印鑰神社(いんやく・いんにゃく)は蘇我石川宿禰を祀る。
蘇我氏は武内宿禰の末裔となっているので高良大社を考えると倭国の中心メンバーだと思うのだが、活動が激しく改革派的で前衛的な感じがする。倭国と別の独立国を奈良に作る急先鋒だったのではないか。そしてこの後に乙巳の変で倭国の保守派に暗殺されたと。そういう筋書きがみえる。