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西嶋定生『邪馬台国と倭国 -古代日本と東アジア-』吉川弘文館 その1

  • 2011年9月20日第1刷発行
  • 著者略歴

1919年(大正8)岡山県生まれ。1939年東京帝国大学文学部東洋史学科入学。1942年繰り上げ卒業。1943年東方文化学院研究員。同学院が東大東洋文化研究所の合併を経て1949年東大助教授。1951年文学部に配置転換。1967年教授に昇進。1980年東大を定年退官。その後新潟大学教授・慶応大学客員教授・就実女子大学教授を歴任。1998年7月に79歳で死去。

本書は、中国史学者である著者が異なる時期に邪馬台国倭国などについて書いたり話したりした論考の中から適当なものを拾い集めて一冊の本にまとめたもの。
著者による「あとがき」に、「くりかえしくりかえし現れる説明の重複があり、また解釈の内容に微妙な不協和音があっても、これらをすべて取り除くことは不可能なことであった。」とあるように、何度も同じことが出てくる。読者の忘却曲線に配慮した親切設計。1994年刊行。

本末にある国学院大学の金子修一教授の解説によると、西嶋氏は1962年の『六-八世紀の東アジア』で唐以前の東アジアの国際社会を規律する秩序として「冊封体制」があったことを初めて主張したという。また『中国古代帝国の形成と構造』と併せて、東アジアの冊封体制の枠組みの中における日本の歴史の理解の必要性を提起した。

「日本の歴史を東アジアの視野で把握することにより、明治以降の独善的な歴史解釈を排除しようとする強い意志のあることは見逃すべきではない」と述べる。
著者は青春時代を大戦中に過ごされておられるためか、「東アジアに対する多大な惨禍を与えた上で自滅した近代日本に対する痛切な反省がある」という。

雑感


卑弥呼邪馬台国倭国などは中国や朝鮮の歴史書にしか出てきません。本書は中国史家の目線で当時の状況を読み解いて行きます。「三國志」の拡張版の中に卑弥呼が出てくる感じですかね。横山・吉川三國志コーエーのゲームに卑弥呼倭国は出てきたっけ?

倭国がどういう状況に置かれ動いていたかを東アジアの冊封体制という枠組みを考慮することにより把握します。邪馬台国の場所探しなどは一切ありません。読んで「なるほど」とおもう箇所多数。また、凄く慎重に論じてある印象を受けた。戦中派歴史家の歴史学に対する責任感の表れでしょうか。
何と言っても著者は大豪族「吉備」の岡山県出身。「ヤマト王権中心の歴史観なんて嘘っぱちを誰が認められるか!」というような反発心と事実への探究心が根っこにあるのではないかと思ったり。

具体的内容


気になる箇所のメモなど。


前漢衛氏朝鮮を滅ぼし四郡設置


ざっと漢帝国の流れを見ておくと

  1. 前漢 : 紀元前206年~8年。
  2. 一旦滅亡 : 重臣の王莽に一旦滅ぼされる。
  3. 後漢 : 25年に漢皇族の劉秀(光武帝)により再興される。
  4. 後漢滅亡 : 220年。

朝鮮では
前漢武帝が元封三年(前108年)に衛氏朝鮮を滅ぼし、

  • 楽浪(らくろう)郡
  • 真蕃(しんばん)郡
  • 玄兎(げんと)郡
  • 臨屯(りんとん)郡

の四郡を置いた。
朝鮮半島に上記の四郡のうちの楽浪郡を置いた際に倭人の所在が明らかになったそうです。
関係ないけど「玄兎郡」が気になる。「」の文字が…

倭人の歴史デビューと『漢書』地理志


班固なる人物が後漢時代に著した『漢書』の「地理志」という項目に、楽浪郡と絡んで歴史に初めて倭人が登場する。
後漢時代に書かれたものだが、内容は前漢の歴史。
楽浪郡は現在の平壌付近。

「楽浪海中倭人、分為百餘国、以歳時来献見云」


時代は弥生中期です。倭人は律儀にしょっちゅう顔見せに行っていたようです。
弥生中期頃までの遺跡で前漢鏡の出ている所は、この時代の倭国の中の国か。ほとんど九州だろうけど。

漢書』以外


実は『漢書』以外で、もう少し古そうな時代の倭人について言及されたものがあるとか。

  • 後漢の王充『論衡(ろんこう)』
    • 周の時代にお酒に匂いをつける鬯草(ちょうそう)なる草を献上した記事
  • 戦国時代?漢代?『山海経(せんがいきょう)』
    • 書かれた時代は不明
    • 倭が燕に属しているという記事

これらははっきりと確かなことが言えないので、信用できる歴史書での倭人初登場記事としては『漢書』地理志としている。



後漢光武帝倭奴国王に印綬


25年に後漢を再興した光武帝が中元二年(57年)、倭奴国王に印綬(志賀島の金印のこと)を与えた記録が『後漢書』に2ヶ所ある。

倭の奴国の使者は光武帝が亡くなる前の月に洛陽に到着していた。正月の祝賀に参加して朝貢と。そこで印綬を与えられたことにより漢王朝冊封に組み込まれ、周辺諸国と国際的秩序が作り出される。
西嶋氏はこのようなものを「冊封体制」(さくほう)と名付け、現在でも広く使用される用語になった。

冊封


冊封(さくほう)に組み込まれると、これを媒介に海外から色んな文物が伝わって来る。幾つかの決まりがありギブアンドテイクで地域安定化をはかる。
朝貢の際には上表文を持参しなければならない。つまり文書外交を行う事が求められるた。倭国にはちゃんと官僚が居た訳ですね。
竹簡・木簡に漢字で文書を書き、それを紐で巻いて結び目に粘土を付け、その粘土に与えられたを押して封印する。倭人の官僚らは当然漢字の読み書きが出来ただろうと。
紙の発明前漢時代の紀元前150年頃といわれ、実用的なものは後漢時代の105年に蔡倫が発明したと『後漢書』にあるらしいが、普及はそのまだ後という。ただでさえ中国の歴史書はボリュームがある。竹や木に書いて保管してたということは、凄まじい物量だろう。歴史編纂に掛ける予算と年月が半端じゃない。
徳がなきゃこんなことやらないね。

文書外交と漢字の使用


日本では古代の文書の証拠が出ていないようですが、硯の出土のニュースはちょくちょく耳にする。
朝鮮半島では1988年、慶尚南道の義昌郡茶戸里(ちゃどり)で前1世紀後半と推定される木棺墓から様々な副葬品と共に毛筆の軸が発見された。弁韓加羅伽耶などと呼ばれていた半島南部で釜山の近く。九州まで直ぐの距離。文字文化の見直しの必要があるかもしれないという。

冊封、王道思想と儒教


小国は冊封により中国皇帝の権威を背景に地域内での地位を高められることは想像しやすいが、中国の立場から小国と結ぶメリットはあるんだろうか?

中国の国家観念として「天子とはかくあるべし」と云う理想像があるという。王道思想といい、それを取り入れたのが儒教

  1. 天子は有徳の君子でなければならない。
  2. 王者は覇者であってはならない。
    1. 覇道は武力を用いて治めるもの。
    2. 王道は徳をもって治めるもの。
  3. その政治は覇道ではなく王道でなければならない。

というような国家観念。
「乱世の奸雄」と誉めてるのか貶してるのか分からない言われ方をする曹操は、王道や儒教的にはアウトなニュアンスだろうか。

曖昧模糊な「徳」の観念ですが、「有徳の君子」かどうかを証明する方法として利用されたのが「中華思想」と「王化思想」。



中華思想


ラーメンとチャーハンと餃子は中華の王道(違
中華思想とは華夷(かい)思想である。華夷とは「漢民族(華)」と「異民族(夷)」を分け、漢民族が中華で最も立派だとする。周りの諸民族は夷狄(いてき)であり、中華より劣る、という思想だとする。ユダヤ教選民思想なんかと似てますかね。
ここで、「漢民族は何故優れているのか、夷狄は何故劣るのか」という価値判断の基準が必要になる。

華夷思想の価値基準「礼」


華夷思想の価値判断基準には「礼」という概念を用いる。
漢民族には「礼」が備わり、夷狄にはそれがない。「礼」が備わっていないので夷狄である。「礼」がないのは鳥や獣と同じである。夷狄は父が死んだらその女を自分の妻にする。そういうのは「礼」がない証拠だ。云々と、要は民族の風習の違いに過ぎないのであるが、古代中国社会における日常生活の規範が「礼」とされた。



「礼」を知らぬ夷狄に対する有徳


古代漢民族の日常生活の規範である「礼」を知らぬ夷狄が使者を派遣し朝貢してくるのは、天子の徳を慕っている証拠である。天子の徳が遥か国外まで伝わり慕ってやってくる、天子の徳に同化されることを願って来朝してくるのだ。という理屈で天子の徳があるかどうかを判断する。
従って、倭国の中の1万戸ほどしか居ない奴国のような小国からでも遠く遥々やって来たことを非常に歓迎し大切にしたのだという。どんな小さな部族に対しても同じ。
フォロワーを増やして喜ぶ感じか。
中国皇帝は朝貢の献上品より豪華で皇帝に相応しい品物を与える為に、かなり財政に負担だったと何かにあった。損して徳取れ?

倭国王帥升等遣使朝貢


後漢書』倭伝の安帝の永初元年(107)、倭国王帥升等」が朝貢に来たと記録にある。倭の奴国王に金印を与えた50年後のことです。
名前が三文字の「帥升等」なのか、複数形の意味の「帥升ら」などは不明。
中国考古研究所の王仲殊先生は複数形ではなく三文字の名前として解釈していると紹介されている。

なお、宮内庁書陵部の所蔵する北宋刊本の『通典』には、『後漢書』と同じ内容が「倭面土国王師升等」となっているそうです。

  • 「帥」が「師」
  • 倭国王」が「倭面土国王」

になっている。この他にも「倭面上国」と書いたもの等があり、鎌倉・室町時代から議論があるらしい。

面上国とか面土国って、昨日大雨で土砂災害のあった熊本県球磨郡あさぎり町免田なんじゃない?日本で3例しか出土していないスーパー貴重な鍍金鏡の出た才園古墳があるような所ですし…



倭国大乱


倭国大乱」について、『魏志倭人伝、『後漢書』倭伝、『晋書』(唐代の編纂)、『梁書東夷伝(同じく唐代)に記録があるという。それらから判断すると、後漢の光和年間、178年~184年の間に発生したようです。数年間荒れる。
107年の倭王帥升等の朝貢から大乱までがちょうど約7、80年。その間は男王が上手くやっていた。

掲載の年表を見ると西暦150年頃から鮮卑匈奴烏桓がほぼ毎年中国に侵略を仕掛けている。184年に黄巾の乱袁紹董卓公孫度曹操などが出てくる。後漢皇帝の権威が落ちている時代での倭国大乱。

だが、107年の帥升等による朝貢の年に既に中国で最初の動乱が起こったという。先零羌の乱という。



先零羌の乱(107~118年)


先零羌(せんれいきょう)とは中国西北部に居たチベット族=羌族の一派のこと。
羌族前漢時代から歴史に登場し、後漢時代に度々反乱を起こした。後漢王朝はこれを屈服させて中国国内の陝西省(せんせいしょう)から山西省の地域に強制移住させてきたという。
後漢の三代までは王朝の力が強く羌族を屈服させていたが、安帝以降は状況が変わる。倭国王帥升朝貢した安帝即位の永初元年に、強制移住させられていた羌族の一部族である先零羌が大反乱を起こした。

この大反乱は107~118年の12年間続き、鎮圧の為の軍事予算が大変な額になる。年間予算の2/3を使った計算になるという。
日本の予算に換算してみると、年間約100兆円として年間約5.5兆円。
羌族の反乱の鎮圧だけで毎年5.5兆円の軍事費。12年で約70兆円。 これは痛い。

高句麗他が玄兎郡に侵入(111、118年)


チベット族=羌族の反乱を鎮圧する最中、永初五年(111)に高句麗が玄兎郡(げんと)に侵入。
元初五年(118)に高句麗、ワイ、貊(ハク)が玄兎郡に侵入。
安帝の末年には鮮卑まで玄兎郡に侵入。

玄兎郡は初めは朝鮮半島の中にあったが、その後は鴨緑江(おうりょくこう)中流、のちの高句麗の都になる丸都(がんと)に移る。玄都と丸都はほぼ同音だとか。

その後も礼を知らない野蛮な夷狄が次々と中国を侵略しまくる。
後漢王朝は予算不足になり官僚の俸給を減額。歳入を増やすために官僚の階級を売りに出し始め質の低下を引き起こす。土地税を増税。悪徳宦官が蔓延る。等々。もうめちゃくちゃ。

卑弥呼を共立


107年に帥升等が朝貢した年に羌族が大反乱を起こし、その後も蕃族が次々と後漢朝鮮半島に侵入、後漢皇帝の権威はもはや無いに等しく、冊封体制の国際的秩序が崩壊する状況の中、倭国でも178年頃に倭国大乱が起こります。
気候変動か何かがあったのかな?異常な感じ。

そして遂に181年頃、倭国は女王卑弥呼を共立、倭国王とした。卑弥呼の国の都があったのが邪馬台国
「あーもう、きさんら何ばしよっとか、こんバカチンが!」と男どもを蹴散らかしていたという(嘘
中国正史にはよく「倭国は男が少ない」と書いてある。記紀で九州は女のリーダーがたくさん出てきますね。殉死や過労死の多い過酷な環境だったのかしら。



一旦ここで切ります。続きは卑弥呼共立の背景から。