chayarokurokuroの雑記ブログ

読書記録、書評、歴史(九州倭国説)など

近畿に王は居ない

都護府、都督府


660年に百済が、668年に高句麗が相次いで唐により滅ぼされますが、その際にそれぞれの都には「都護府」や「都督府」という唐軍の拠点が置かれました。新羅にも663年に「鶏林州都督府」が置かれ冊封されています。

倭国はというと、663年に百済の復興の為に行った唐・新羅連合軍相手の白村江の戦いで大敗北し、唐の郭務悰らの進駐軍により太宰府に「筑紫都督府」が置かれます。 なぜ太宰府かと言えば、倭国の都が北部九州に在ったからに他なりません。王都が近畿だったなら、真っ先に近畿に置かれたでしょう。

朝鮮式山城


白村江以降の数年のうちに、防衛の為と思われますが「朝鮮式山城」を建設・改築したことが記紀に載っています。近畿には安城のたった一つだけです。
近畿に王都があったなら、もう少し防御を固めたでしょう。

国史の描写


中国正史のどれを読んでも日本に関する地名は九州とおぼしき物ばかり挙げられ、「筑紫より東は倭人の亜種」とか「筑紫より東は倭国に属する」などと適当にあしらわれた書き方がされています。
どう考えても近畿に王都が在ったと思えない扱いです。もし在ったら瀬戸内海や琵琶湖の描写ぐらい出ていると思います。



四道将軍は竹槍部隊


日本書紀崇神天皇のころに四道将軍が全国に派遣されます。卑弥呼の同時代かと思いますが、奈良には鉄器や外交の跡がありません。竹槍部隊でも組織して将軍を派遣したのでしょうか。
もちろん鉄器の豊富な九州の倭国から派遣されたでしょう。丹波道主などは高良大社宮司家の一つ「丹波氏」として残っています。

倭国は七世紀末の白村江までは存在していますし、「旧唐書」「新唐書」までは大きな体制の変化は見られないと思います。坦々と九州から全国平定し続けていたと考えられます。



記紀で近畿中心に全てを塗り替えた


「天智」は王朝最後の王の意味の込められたニックネーム、漢風諱号だといいます。
壬申の乱で天武は倭国を滅ぼし、近畿に新王朝「日本」を立て、「天皇」と号し、歴史書の編纂を命じ、その40年後の8世紀に成立した「古事記」と「日本書紀」により近畿で代々世襲天皇が政治を行ってきたという物語にした。
筑紫君磐井をはじめ平群氏や蘇我氏武内宿禰の子孫とされた一族、大伴氏や物部氏などをもことごとく天皇が滅ぼすのは、それら倭国の歴史と領土等を近畿の新王朝の下に全てを組み入れる為でしょう。倭国が白村江で弱ったところを壬申の乱で一掃出来たからこのような操作が可能だったと思います。