佐賀県嬉野市塩田町五町田甲にあります吉浦(よしうら)神社と和泉式部(いずみしきぶ)公園へ行って来ました。
場所
吉浦神社と和泉式部公園は隣り合っています。公園の駐車場に停めて、
藁葺き屋根の民家や蔵が再現されている
「和泉式部って国語の授業で出てきた覚えがあるな」と誰しも思うでしょうが、なぜ佐賀県嬉野市に彼女の名前のついた公園があるんだろうか?
平安時代、藤原氏全盛期。佐賀県の白石町にある福泉禅寺の僧侶らがある朝、赤ちゃんの鳴き声で眼を覚ます。周囲を探しますと御堂の裏で白い鹿が人間の赤ちゃんにお乳をあげていた。
そこへ隣の塩田町から長者大黒丸夫婦がやってきて、
「私たち夫婦には子供がいないので、常々このお寺の薬師如来さまにどうぞ女の子をお授けくださいと祈願しておりました。すると夕べ、薬師如来様が夢枕に立たれ『おまえたちの永年の信心をあわれと思い、福泉禅寺の裏に一人の女の子をさずけておいた。明日の朝早速に寺に行き、その子をつれて帰るがよい』とお告げがありましたので早速こちらへ参った次第です」
と申しました。長者大黒丸夫婦に引き取られた女の赤ちゃんはとても賢く美しく成長します。縁あって宮廷に上がることになるのですが、それが和泉式部だと伝わっているといいます。
彼女が故郷を思って詠んだ歌
ふるさとに 帰る衣の 色朽ちて 錦の浦や 杵島なるらむ
和泉 式部(いずみ しきぶ)
天元元年(978年)頃 - 没年不詳)は平安時代中期の歌人である。越前守・大江雅致の娘。中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。
越前守・大江雅致と越中守・平保衡の娘の間に生まれる。はじめ御許丸(おもとまる)と呼ばれ太皇太后宮・昌子内親王付の女童だったらしい(母が昌子内親王付きの女房であった)が、それを否定する論もある。
長保元年(999年)頃までに和泉守・橘道貞の妻となり、夫と共に和泉国に入る。後の女房名「和泉式部」は夫の任国と父の官名を合わせたものである。道貞との婚姻は後に破綻したが、彼との間に儲けた娘・小式部内侍は母譲りの歌才を示した。
和泉式部は橘道貞という人物と結婚していた。佐賀は橘氏ゆかりの場所が多い。橘諸兄の子の橘奈良麻呂は乱を起こして処刑された獄死した事になっているが、実は佐賀の楢崎という所に逃れたという伝説がある。橘町という地名で、金の王冠👑が出土した玉島古墳や、おつぼ山神籠石がある場所。カッパの伝説もある。
橘諸兄の母で、藤原不比等の妻で、橘氏の初代でもある県犬養三千代の県犬養氏は安曇族ですよね?九州が本拠地。橘氏のルーツは佐賀にあったんじゃなかろうか。日本書紀にある垂仁天皇時代に、タジマモリは常世の国へ行き橘の木を持ち帰る。タジマモリは新羅の天の日鉾の末裔で、三宅連の先祖でもある。筑紫三宅連だ。
一方、和泉式部の父はWikipediaによれば、越前守・大江雅致。母は越中守・平保衡の娘。両方とも越国。秦豊国だ。福泉禅寺の伝承に登場する「白い鹿」も新羅を匂わす。
吉浦神社
和泉式部公園のすぐ隣です。こちらは
祭神
旧鍋島蓮池藩祖 鍋島甲斐守直澄公
由緒
鍋島甲斐守直澄公は佐賀藩主鍋島勝茂公の三男。元和元年(1615)11月12日佐賀城にて誕生。幼名を千熊丸。
寛文5年(1665)吉浦に別館を設け、剃髪して義峰と称して老後を送る。55歳のとき病にたおれ、寛文9年(1669)3月5日、吉浦の館で逝去。遺骸は吉浦で荼毘に伏し、吉浦至誠山(現吉浦神社)に葬った。正献院殿義峰宗眼と謚した。
延宝8年(1680)庚申、至誠山、秀天霊社と称した。
文政元年(1818)150年祭が斎行され、大明神の称号を受け以後 吉浦大明神と称し崇拝された。
明治初年吉浦神社と称し明治12年には郷社に列せられた。
現在五町田の氏神であり、学業、商業、産業の守り神として塩田町はじめ県内外より崇敬され参拝者が多い。
江戸初期の鍋島蓮池藩の殿様の墓であり神社でもある。墓と神社が一体型な事は、この後で伺った潮見神社(潮見古墳が裏山にある)の宮司さんとの話の中で「墓が穢れというような発想は元々なかったから神社と一体化しているのだ」と仰ったのを思い返す。
神社へ移動。駐車場から歩いて1分
階段を登ります。到着まで3分
左右に別れている。つながっているが左に進む
殿様の屋敷跡なので城っぽい石垣
唐寺っぽい門
左右に手水舎がある
振り返る
厳つい
馬がいる。ハチマキをしめている。
牛もいる。こちらもハチマキ。
本殿は鮮やかな朱
納骨堂?
以上です。