chayarokurokuroの雑記ブログ

読書記録、書評、歴史(九州倭国説)など

内倉武久『太宰府は日本の首都だった』ミネルヴァ書房

2000年6月初版。
著者は1943年生まれ鹿児島県出身で慶応法学部卒の元朝日新聞記者。古代史の本を何冊も出されている。

本書はタイトル通り「太宰府が日本の首都だった」という説を主に主張する、いわゆる九州王朝説本。
日本古代史の定説は奈良大和を中心とした王権が日本全体に影響を及ぼしていたとしている。しかし

  • 『隋書』で日本の王の名を阿毎・多利思北孤・阿輩雞彌(男性)とするが、記紀では推古天皇(女性)
  • 旧唐書』で「倭国と日本は別種」とある
  • 天皇」号や「日本」の国号は天武天皇の頃から始まる
  • 前方後円墳は奈良発祥ではない
  • 「倭」「大和」は「ヤマト」とは読めない
  • 「大和」になるのは8世紀で、邪靡堆邪馬臺倭国の都だとする中国正史に基づき名前を変えたのでは?

等、文献の比較や考古学で辻褄が合わない箇所や怪しい箇所がたくさんありまして、全国民1億2千万人から「インチキ」「でたらめ」だと総スカンを喰らっていると古事記に書かれてあります。
俗に九州倭国説と呼ばれるものは、日本古代史の定説に異義を唱え、「倭国の首都は九州にあり、全国をおさめていた」という風な思い切りの良い説で、基本的に弥生末期から記紀の成立後あたりの倭国の動向しか関心を持たない。
本書は九州説で有名な古田武彦の説とほぼ被る内容で所々古田説を引用もされていますが、古田本より読みやすくまとまっていて入門書としてベターかと思います。

太宰府が首都だったという理屈は次のようなもの。
日本書紀で天智6年(667年)に「筑紫都督府(ととくふ)」について触れてある。660年に唐は百済を滅ぼす。百済の生き残った官僚らが復興運動を起こし、倭国はそれに乗り663年に唐・新羅連合軍と「白村江の戦い」をやって大惨敗します。そして667年に筑紫都督府が太宰府にあったことが日本書紀に出てくる。「都督府」とは当時唐が新羅百済高句麗(は都護府)にも置いた直轄地で、マッカーサーが東京に置いたGHQ本部みたいなものです。倭国の首都が太宰府にあったからこそ筑紫都督府が太宰府に置かれたのだという。九州説の大きな根拠にもなっている。
また『万葉集』には太宰府を「大君の遠の朝庭(みかど)」と呼ぶ歌が8箇所あるという。万葉集の成立は大和朝廷が初めて制定した元号「大宝」(701年)以降であり、奈良からみて太宰府は遠いのですが、時代的にも遠い過去。和歌集には昔の倭国を懐かしむ歌が暗号のようにしてたくさん入っているのです。

遣隋使の小野妹子の部分、記紀では1つも「隋」が出て来ず全て「唐」か「大唐」になってるそうですが気付きました?