長崎県諫早市宇都町の諫早(いさはや)神社、別名四面宮(しめんぐう)へ行って来ました。
諫早神社は、もとは九州総守護の神々をお祀りする「四面宮」という神仏習合の神社で、地元では「おしめんさん」と呼ばれ親しまれている。
四面宮とは、『古事記』の国生み神話に由来する九州(筑紫島)総守護の神々をお祀りする神社。
「次に、筑紫の島を生む、子の島もまた、身一つにして面が四つあり、面ごとに名がある」
とある。これに由来するようです。
「九州総守護の神々を祀る」という政治的に中心的なニュアンス。
なぜそれが諫早にあるのだろうか?
1965年(昭和40年)、宮崎康平が『まぼろしの邪馬台国』を書きベストセラーになります。それまで学者だけで議論されていた邪馬台国論争が一気に庶民に広がり、大ブームを起こしました。古田武彦の九州王朝説もちょうどこの頃。
宮崎康平は島原の宮崎組という土建業の息子で、早稲田大学の文学部を卒業後に今の東宝へ入社。兄の死をきっかけに島原に戻って土建業の経営、また島原鉄道の取締役にも就任するなど多方面で活躍。そして『まぼろしの邪馬台国』を書き、島原の観光業界にも火をつけました。著書は吉永小百合と竹中直人ら豪華俳優陣を起用し映画化もされた。
むかし読んだ記憶がある。どのような説だったか覚えていませんが、宮崎康平の邪馬台国島原説のアイデアの核には、この四面宮の存在が間違いなく影響していただろう。
その他、
雲仙天草国立公園は長崎県島原半島と熊本県天草諸島に属する国立公園である。雲仙地区は1934年3月16日に雲仙国立公園として、瀬戸内海国立公園,霧島国立公園とともに日本で最初の国立公園に指定される。
とあるように、雲仙島原は重要視されているようにも思われる。島原の乱の舞台でもある。
場所
穏やかな内海の大村湾海上交通と有明海を結ぶ要所、諫早は港として重要そうです。現在の陸上交通も長崎道とJR長崎本線は諫早を通る。
御祭神
幕の内弁当のように色んな神々が祀られている贅沢さ。
意外にも「高来縣」なのに「高木神」は祀っていない。
由緒
縁起書によれば、当宮の創始は 平城京・奈良時代の神亀五年(西暦728年)に、聖武天皇の勅願により行基菩薩が当地へ赴いて石祠を祀ったのが始まりと伝わる。
もとは九州総守護の神々をお祀りする「四面宮」という神仏習合の神社であった。
古来より諫早の氏神様として、歴代領主の祈願所と定められ西郷家や龍造寺家・諫早家から篤く信仰されてきた。
明治時代の神仏判然令により、並祀していた荘厳寺は分離されることとなり本尊などは近くの寺院に移設。その際に、社名を四面宮から「諫早神社」と改称した。
地元の人々からは、「おしめんさん(お四面さん)」の愛称で親しまれ、当地方の中心社寺として崇敬を受けている。
四面宮とは、
諫早神社だけでなく、島原半島を中心に多く建立されている神社で、雲仙にある四面宮が総本宮であった。
諫早領内にも分社として、数多くの四面宮があったが、現在は福田神社、宗方神社、西長田神社、深海神社などの社名に改称されている。
四面宮は「筑紫国魂神社」とも呼ばれ、その名の通り九州一円の守護神として九州各地の大名や有力者から崇敬を受けていた。
神仏分離令の影響で、今では四面宮の名称は残っておらず、多くの四面宮はいずれも明治時代に「温泉神社」へ名称を変更、今現在も島原半島には十数社の温泉神社が鎮座している。
【公式】諫早神社 | 九州総守護の神社 | 四面宮(長崎県)より
- 神亀五年(728年)に、聖武天皇の勅願により行基菩薩が当地へ赴いて石祠を祀ったのが始まり。
- 雲仙が総本宮だった。
- たくさんあった四面宮の名称は1今は残っていない。
- 「四面宮」→「温泉(ウンゼン)神社」→「雲仙」
- 四面宮は「筑紫国魂神社」とも呼ばれ、九州一円の守護神として九州各地の大名や有力者から崇敬を受けていた
雲仙島原の遺跡
ざっと検索で出てくるものとして、
「百花台遺跡(ひゃっかだい)」
旧石器時代~奈良・平安時代(約3万年~1200年前)。
出土量は全国トップクラスの有名な遺跡だという。
○百花台(ひゃっかだい)遺跡 - 雲仙市
「弘法原遺跡(こうぼうばる)」
縄文時代早期(約8000年前)。
○弘法原(こうぼうばる)遺跡 - 雲仙市
「原山支石墓群」
島原に、縄文末期の支石墓群としては最古最大。
原山支石墓群 - Wikipedia
ここは以前に行って来ました。
島原半島の縄文遺跡原山支石墓群に行ってきた - chayarokurokuroの読書ブログ
縄文的な生活をするには雲仙島原は住みやすい場所なのかな。温泉もあるし。
一方で、長崎は平地が少ないので稲作で富を蓄積して多人数を養うような弥生・古墳文化に不向きな土地柄なのか、古墳の数は全国ランキングで下から数えた方が早い。殆ど無い。
人を神にして崇め奉る政治的発想から来る弥生文化以降の神社の在り方を考えると、雲仙島原は「九州総守護の神々」を祀る強力な権力者が居た場所とは考えにくいので、若干違和感がある。
下のサイトを見付けた。
[PR] 東海イズム・アカデミックカフェ:古墳と火山と太陽 ~第441回望星講座から~ - 毎日新聞
上のページによると、吉野ヶ里遺跡の中央線は雲仙に向けられており、祖霊信仰や火山崇拝があったのではないか云々、と書かれてある。
先祖と火山の崇拝。こちらの方ならより自然な考え方かと思える。
「雲仙岳ば祀らんば、荒ぶらっしゃる」
みたいな…
諫早神社の写真を。
島原半島や諫早領内にもたくさんあったという四面宮が現在のココだけ残ったということで、場所の確認
城に近く川の横。諫早領主の手の届く場所。
かなり川幅は広い
「多良街道」
神社正面の鳥居
本明川(ほんみょうがわ)の堤防のコンクリートに背中を張り付けて写している。
長崎県天然記念物の楠の木
木瓜紋っぽい中に日の丸の紋
拝殿向かって右手に移動。駐車場がある
諫早は鰻。東鯷人的な、蒲池姫的な、豊玉姫的な、與止日女的な、アンチなまず食信仰の何か。
拝殿
後ろの紺色の幕?に藤の紋が見える
子どもの狛犬、独立心旺盛
アマビエ
社殿左側にまわる
祠がいくつか
西南の役
1877年に西郷隆盛の起こした西南戦争で諫早も新政府から要請があり、元家臣から149名の募兵あり。
小森純蔵を隊長とする諫早隊が熊本に到着するも既に攻防戦は終了、追撃隊で参加したが一戦も交えず、帰還し解散と。
同じ西郷家としてやり難い感じだったのか。
熊本県山鹿に四面神社を発見。
四面神社(山鹿市宗像)
四面神社と申せしは、肥前国、嶋原(高来郡也)温泉嶽のいただきに御本社これあるなり。神の名は大汝少汝(オオナムチスクナムチ)の神と申して、神代より薬湯の神にて(俗ノ薬師ナリ)よりて湯の出る所すべてこの神を祭る事なり。(中略)
この神は、万病をつかさどり給える神なれば、万人さんけいして、よくこの神をいのるべき事なり。
こちらの住所は山鹿市宗像。
雲仙岳の山頂にある御本社が四面宮で、四面宮の神を大己貴命と少彦名命といい、それは温泉の神だった!!
なんだ、大己貴と少彦名は温泉の神で島原人だったのか…
大己貴といえば、福岡県朝倉郡筑前町(旧・三輪町)弥永字大神屋敷の大己貴神社(大神神社)。
日本最古の神社で、地元ではオンガサマと呼ばれ、おおがみさまが訛ったものだという。
大己貴=大国主としている。
大己貴神社の歴史|大己貴神社
「雲仙や温泉の神がどうのこうの」は見当たらない。
サイトには「奈良の大神神社は朝倉の三輪から移った」みたいに書いてある。
住吉神社をはじめ、大神神社や石上神宮や熊野神社の本宮が古くから近畿にあったことにしないと「ヤマト王権」というフィクションが成り立たない。
全国の神社ではどうやら「温泉」「大己貴」「少彦名」はセットで祀られているようで、まさか雲仙岳への信仰を発祥とした九州総守護への信仰が拡がったとも思えず…