白角折でオシトリと読む。
サントリーのウイスキーの宅飲みを連想する(しないかw)神社名。同じく佐賀にある
- 「櫛田宮」
- 「高志宮」
- 「白角折宮」(こちらの神社)
の三社を合わせて「櫛田三所大明神」と称された。これらの神社はスサノオと櫛稲田姫ご夫婦、日本武尊などを祀っている。
場所
御祭神
由緒
白角折神社は、日本武尊を祭神とし、貞観15年(873)に従五位下の神位に叙せられた古社で、櫛田宮・高志神社とともに櫛田三所大明神と称されていました。
城原川が谷より平野部に流れ出る水口を治める役割を持つ神社でもあります。
白角折の名称は、日本武尊が熊襲征伐の折に白角折社のから的に向かって矢を射たという伝説があり、白角折は幣作りのおしとり部と、的は弓作りのいくわ部の関連が伺えます。
白角折(おしとり)は弊作りに関連するという。
倭文(しとり)は、麻や穀(かじ)などの繊維を使って文様を織り出した日本古来の織物のことを言う。
倭文部(しとりべ)と関係は薄そうだが、少し西に「金立町」があり、その南に「巨勢川調整池」がある。平成に入って佐賀県が調整池の建設の為に調査を行った際、「東名遺跡(ヒガシミョウ)」という縄文前期末(8000年前~7300年前)の遺跡が発見された。貝塚や人骨、ドングリや動物・魚の骨、蔓などの植物で編んだ籠などが出土。この編み物はオシトリ風に模様が入っていたようです。
東名遺跡は、今から7300年前頃に年間0.7m(だったかな?)の激しい縄文海進で立ち退きを余儀なくされたか、粘土で埋まった。おかげで遺跡の保存された。そしてその直後に鹿児島の喜界カルデラ大噴火で九州はじめ西日本の縄文人はそれから1000年間ほど居なくなる。
九州の縄文中期以降の土器を「轟B式」というらしいが、喜界アカホヤ以前の土器は「轟A式」で、別物だという。他の所から来た人がその後の九州縄文人の祖になった。南方かどこか。
白角折宮の話に戻る。
創建は貞観15年(873)ですが、仁比山神社(にいやま)の由緒によると、荘園の衰えとともに寂れてしまった当社は、心ない明治政府の神社合祀令により「明治44年(1911)、仁比山神社に合祀」された。そして後に現在の場所に復座し、朝日地区の人々の手によって守られている。
周辺の風景
小さくて見えないが、写真中央の建物は久留米に本店がある豆腐懐石料理チェーン「梅の花」の豆腐の工場兼レストラン。お客さんで賑わっていた。
レモンを搾って食べる湯葉揚げが美味しい。
樹齢1000年の大楠。広がる枝を鉄骨で支えている。
正面の鳥居
佐賀は楠の信仰でもあったのか
クスノキを近くから
周りは杉林に覆われていて場所が分かりにくい。
狛犬は居ない。
藁葺き屋根っぽい
入口方向