chayarokurokuroの雑記ブログ

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藤原不比等の子と孫を祀る?謎の『堤雄神社』佐賀県杵島郡江北町

藤原不比等の子と孫を祀るという謎の神社、佐賀県杵島郡江北町佐留志の『堤雄神社』(ツツミオ)に行って来ました。

鳥居や拝殿には『裹尾社』などとも書かれ、ツツミオツツオと読むそうな。
「ツツオ」と読めば「筒男」で住吉三神を連想します。
「裹」は漢字辞典によるとツツと読み「果」と同じ字だとある。



由緒

をお借りします。

御祭神:成満公(藤原不比等公御連子)、猿千代麿、石若麿
 祭礼日:10月19日(おくんち 神輿、面浮立)
 境内社:稲荷社、太神宮、山神、天照太神宮、水神、祇園宮等多数
 由緒:仁和元年従五位上に叙された堤雄神を祀る古社である。室町時代に地頭前田氏の尊崇篤く、後に永禄年間竜蔵寺隆信が肥前国を領するや本社を祈願所となし、社領を寄せた。
(「神社名鑑」より)



御祭神に「藤原不比等公の御連子の成満公」とある。成満公は佐賀に来てこの地で嫡男の猿千代麿と次男の石若麿をもうけ、この地で亡くなったという。

藤原不比等の子で有名なのは藤原四兄弟。で連れ子の「成満」という人物がいた?ネットで調べた限りでは、こちらの堤雄神社の記事で「武松成満朝臣」とか書かれたものしか見つけられず。

「連れ子」ではなく「連子」という人名だと読めば親族に「蘇我連子(むらじこ)」がいる。蘇我倉麻呂(蘇我雄正)の子で、冠位は大紫・右大臣。
蘇我連子の兄弟は石川麻呂、日向、赤兄、果安。

「裹尾社」の「」=「」であることから「蘇我果安(はたやす)」と共通点に着目してみる。父の倉麻呂の別名も「正」で「堤雄神社」の「雄」と共通する。
蘇我果安は壬申の乱大友皇子側に付き、結局自害してその子供らは流刑。役職は蘇我赤兄左大臣、中臣金・右大臣に次ぐ重職の御史大夫。同じ位に巨勢人と紀大人。まさか佐賀に落ち延びたとかでは…

ここでの登場人物の、

佐賀や福岡の武内宿禰関係者が固まっているように見える。



蘇我連子の子どもの一人に蘇我娼子(しょうし/まさこ)がおり、藤原不比等に嫁いで武智麻呂、房前、宇合を産んだ(宇合については疑問視意見多数と)。彼女が不比等と繋がる。



一方、藤原不比等の子は、武智麻呂、房前、宇合、麻呂、宮子、長娥子(ながこ)、光明子(こうみょうし)、多比能(たびの)。
武松成満なる人名が見当たらない。



武松と武智麻呂の「武」繋がりで同一人物とすると、武智麻呂は正一位太政大臣。太宰帥にもなっているので九州と縁はあるが、佐賀で亡くなったということは見つからず。



わからんですね。
県犬養三千代橘氏橘奈良麻呂、紀氏や巨勢氏や大伴氏、武内宿禰(と末裔)は佐賀との関係が濃厚で、この堤雄神社の隣に「大江大神宮」という中大兄皇子の「中の」「大江」が関係してそうな名前の神社もあり非常に匂いますけど、謎はおいておきます。



場所

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JR長崎本線肥前山口駅すぐそば。路線はここで長崎本線佐世保線に分岐し、国道207号線国道34号線が交わる交通の要所です。



肥前山口駅の通りを少し入ると大きな一の鳥居があり、神社に続く階段を登るようになっているのですが、バイクで上まで登りました。

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登ってくる途中の鳥居。この前にグラウンドがあります。


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「裹尾社」(つつお)

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グラウンド横をバイクで登って

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駐車場?バイクはここに止めた。

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後ろを振り返って

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右手に石碑と乙宮社

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「乙宮社」は隣の佐賀県小城市牛津の神社です。


鎮西八郎為朝の大蛇退治祈願のため、鎌倉八幡宮を勧請して若宮八幡神社として祭ったのが始まりとされる

出た!暴れん坊の鎮西八郎為朝!以前に伺った肥前で最古の神社という黒髪神社で登場しました。あっという間に九州をとった人物。
肥前最古の神社「黒髪神社」と「肥前鳥居」佐賀県武雄市 - chayarokurokuroの雑記ブログ



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最近建て替えられたのか、新しい。



正一位裹尾大明神
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正一位」は神社自体に与えられたものではないようなので、これは人物に対して与えられたものを指している筈。かなり限られた人物になる。藤原不比等の周辺で正一位を受けて佐賀で亡くなった人物…通説には居なさそう。



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大国主の足跡ですと? ↓

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写真は以上です。

正一位または贈正一位の人物が佐賀で亡くなったという記述が見当たらない。
換わりに藤原四兄弟の一人、藤原房前(ふささき)について次のサイトを見つけた。
持統天皇と天山6 黒尾大明神とは藤原四兄弟の一人、房前だった : ひもろぎ逍遥
有名なひもろぎ逍遙さんのブログ記事ですけど、

東松浦郡史』(大正14年)の広瀬の天山宮に「黒尾大明神」という末社のことが書かれている。

そこには、藤原安弘があの房前(ふささき)公の諱(いみな)だ、と書かれていた(驚愕) まさかのビッグネームの登場だ。

安弘とは、のちに内大臣になる藤原房前のことだったのだ。

東松浦郡史」を訳そう。 <黒尾大明神
 右は末社である。参議正三位民部内大臣藤原安弘がこの神で、天山宮の社司の祖である。すなわち房前公の諱(生前の実名)である。藤原姓の祖とする神である。

天平神護元年(765年)(称徳天皇の)勅宣をたまわって、安弘公を黒尾大明神とした。>



黒尾神社の黒尾大明神藤原房前だって?
ますますわからんくなってきたばい!(笑)

堤雄=裹尾=筒男=住吉=墨江=黒尾

で、裹尾大明神=黒尾大明神=藤原房前か?

藤原房前

(737年) 4月17日:薨去(参議民部卿正三位)。
10月7日:贈正一位左大臣
天平宝字4年(760年) 8月7日:贈太政大臣 藤原北家の祖

一応、正一位ではある。天然痘で亡くなったとはあるが佐賀の記述なし。

お手上げ。あとは任せた。