chayarokurokuroの雑記ブログ

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『梁書』に出てくる謎の国「文身國」「大漢國」「扶桑國」「女國」

梁書』に日本列島や倭人に関する記述が出てきますが、そこに「文身國」「大漢國」「扶桑國」「女國」という国が登場します。九州王朝説や邪馬台国論争でも『梁書』はあまり盛んに取り上げられてない気がしますが、興味深いのでざっとまとめました。



梁という国


6世紀頃、中国の南朝「梁」という国がありました。
梁 (南朝) - Wikipedia
梁が存在したのは502年~557年、首都は建康(=建業、=南京)におかれます。

倭の五王の登場する中国史


国史の魏史倭人伝に卑弥呼や邪馬壹国(または邪馬臺国、または邪馬台国)が登場した後、しばらく倭人倭国は登場しなくなります。
次に出てくるのは「倭の五王」と呼ばれている倭国の5人の王(讃・珍・済・興・武)が南朝朝貢した5世紀頃です。出てくる書物は、

中国六朝南朝六代:呉、晋、宋、斉、梁、陳)の第三王朝である宋帝国の正史『宋書』(513年ごろ完成)には、宋代(420-479)を通じて倭の五王の遣宋使が貢物を持って参上し、宋の冊封体制下に入って官爵を求めたことが記されている。宋に続く斉の正史『南斉書』(537年)、梁の正史『梁書』(619年)、南朝四代:宋、斉、梁、陳の正史『南史』(659年)においても、宋代の倭王の遣使について触れられている。(Wikipedia『倭の五王



梁書』について


上記にあるように『梁書(りょうしょ)』の列傳第四十八の東夷部分に倭国倭人が出てきます。
梁書』は全部で56巻あり、姚思廉(ようしれん、557~637年)が父の遺志を受け継ぎ完成させました。司馬遷親子の『史記』のように国家事業ではなく個人が作った歴史書とされます。

後世の評価では、

概ね公正で体裁も整った良史とされるが、列伝の立伝方針や編纂順序等に難ありとの評価もある。(Wikipedia 『梁書』)



梁書』に登場する「文身國」「大漢國」「扶桑國」「女國」


参考サイト
歴代倭人伝の縦断検索
こちらのサイトは倭国倭人が登場する中国歴史資料がまとめてあります。

梁書』には倭国以外では「侏儒国」「黒歯国」「裸国」という魏史倭人伝にも出てくる鹿児島か沖縄辺りと思われる島国の他に、「文身国」「大漢国」「扶桑国」「女国」という国が新登場します。
扶桑國については、扶桑国からやってきたという沙門慧深なる僧が語った内容のようです。
以下、引用します。

文身國


文身國、在倭國東北七千餘里。人體有文如獸、其額上有三文、文直者貴、文小者賤。土俗歡樂、物豐而賤、行客不齎糧。有屋宇、無城郭。其王所居、飾以金銀珍麗。繞屋爲壍、廣一丈、實以水銀、雨則流于水銀之上。市用珍寶。犯輕罪者則鞭杖。犯死罪則置猛獸食之、有枉則猛獸避而不食、經宿則赦之。


倭国~文身国間の距離約7000里

「文身國は倭國の東北七千餘里にあった」という。約7000里とはどれ程の距離だろうか。
魏史倭人伝には、末盧国(長崎県佐賀県の松浦)から伊都国(福岡県の糸島)まで500里と書いてあります。末盧国とは何処か。

佐賀県呼子加部島にある田島神社はかつて肥前一の宮( 現在は與止日女神社千栗八幡宮 )だったようなので、

  • 末盧国=呼子とすると、 呼子~糸島は約50キロ。500里=50キロで換算すれば1里=0.1キロ=100m。

  • 末盧国=唐津市内とすると、 唐津~糸島は約30キロ。これで換算すれば1里=0.06キロ=60m。



倭人伝に出てくるその他の距離でソウル~釜山間、釜山~対馬間、対馬壱岐間などを平均化すると、同じように1里=60~100m程だそうですので、これで計算すると、

  • 倭国~文身国の距離 : 7000里=約420~700キロ。


倭国を博多として、
北東420~700キロにある場所は、


倭国を久留米として、


熊本県上益城郡山都町(旧矢部)からだと

北部九州から測れば、だいたい中国地方から関西圏内におさまる。
倭国を奈良とした場合、諏訪大社までは360キロ、群馬まで470キロ、埼玉まで500キロ。文身國は関東になる。



文身国の風習

体に獣のような、額に三本刺青を入れている。貴賤で長さが違う。旅行客には食べ物を与えず、城郭は無く、王の住処は金銀財宝で埋め尽くされ、周りを掘って水銀を溜め雨が降ると水がその上を流れる。市では珍しい賽を用い、軽犯罪者は杖で鞭打ち殺人罪では獣に喰わせられる。



大漢國


大漢國、在文身國東五千餘里。無兵戈、不攻戰。風俗並與文身國同而言語異。



大漢國の位置

大漢國は文身國の東5000里にある。1里=60~100mとして、

◆文身國=奈良市とすると、
東に300~500キロは、静岡市埼玉市

◆文身國=関東圏とすると、
東に300キロも行くと大漢國は太平洋上に出てしまう。北に行けば福島市より更に北に位置。群馬や埼玉から岩手県の一ノ関が420~450キロ。



大漢國の風習

武器はなく攻戦せず、風俗は文身国と同じだが言葉が違う。



扶桑國


扶桑國者、齊永元元年、其國有沙門慧深來至荊州、說云「扶桑在大漢國東二萬餘里、地在中國之東、其土多扶桑木、故以爲名。扶桑葉似桐、而初生如笋、國人食之、實如梨而赤、績其皮爲布以爲衣、亦以爲綿。作板屋。無城郭。有文字、以扶桑皮爲紙。無兵甲、不攻戰。其國法、有南北獄。若犯輕者入南獄、重罪者入北獄。有赦則赦南獄、不赦北獄。在北獄者、男女相配、生男八歲爲奴、生女九歲爲婢。犯罪之身、至死不出。貴人有罪、國乃大會、坐罪人於坑、對之宴飲、分訣若死別焉。以灰繞之、其一重則一身屏退、二重則及子孫、三重則及七世。名國王爲乙祁。貴人第一者爲大對盧、第二者爲小對盧、第三者爲納咄沙。國王行有鼓角導從。其衣色隨年改易、甲乙年青、丙丁年赤、戊己年黃、庚辛年白、壬癸年黑。有牛角甚長、以角載物、至勝二十斛。車有馬車、牛車、鹿車。國人養鹿、如中國畜牛。以乳爲酪。有桑梨、經年不壞。多蒲桃。其地無鐵有銅、不貴金銀。市無租估。其婚姻,壻往女家門外作屋、晨夕灑掃、經年而女不悅、卽驅之、相悅乃成婚。婚禮大抵與中國同。親喪、七日不食。祖父母喪、五日不食。兄弟伯叔姑姊妹、三日不食。設靈爲神像、朝夕拜奠、不制縗絰。嗣王立、三年不視國事。其俗舊無佛法、宋大明二年、罽賓國嘗有比丘五人游行至其國、流通佛法、經像、教令出家、風俗遂改。」



扶桑国の位置

斉の永元元年(西暦499年)に荊州に扶桑国からやってきたという沙門慧深なる人物が語る処によれば、扶桑國は大漢國の東に20000里にあり、中國の東に位置する。
1里=60~100mで換算して、20000里=1200~2000キロ。
大漢國が関東でも東北でも、東に行けば太平洋沖。
北に行けば、埼玉からだと宗谷岬まで1500キロ。岩手からなら北方領土樺太など越えて極東ロシアのハバロフスク地方とかでしょうか。



古代の東洋人は太陽の昇る東の方向に不老不死の仙人が住むユートピアがあると考えていた。蓬莱山・崑崙山があり、生命の樹・扶桑樹が生えていると。

扶桑 - Wikipedia

沙門慧深はそのユートピアから来たという。僧のハッタリか、フロンテア精神を焚き付けるプロパガンダの類いか。人材募集か。自国の場所を隠したいが交易や外交はやりたいという事かな。


記紀では仏教が入ってくるのは6世紀の欽明天皇の頃としている。九州はそれより100年は早いと言う説がある。埼玉の稲荷山古墳の鉄剣銘文には「寺」の文字がある。沙門慧深が荊州に至る西暦499年は欽明より前。



長いので書き下し文をコピペで済まします。参考・引用元は×nä ¤{Ò

扶桑國。齊の永元元年、其の國の沙門慧深有り來りて荊州に至り、説に云う、「扶桑は大漢國の東二萬餘里在り、地 は中國の東に在り。其の土に扶桑木多く、故に以って名と為す。扶桑の葉は桐に似る。而して初めて生ずるに笋の 如く、國人之を食う。實は梨の如くして赤し。其の皮を績ぎ布と為し以って衣と為し、また以って綿と為す。板屋を作り城郭無し。文字有り、扶桑の皮を以って紙と為す。兵甲無く、攻戰せず。其の國法に南北の獄有り。もし輕きを犯す者は南獄に入り、重き罪の者は北獄に入る。赦有りて則ち南獄は赦し、北獄は赦さず。北獄に在る者、男女相配し、男を生むは八歳に奴と為し、女を生むは九歳に婢と為す。罪を犯す身は、死に至りて出でず。貴人罪有り、國乃 ち大いに會し、罪人を坑に坐し、之に對し宴飲し、分訣、死別の若(ごと)く、灰を以ちて之を繞(めぐ)らす。其の一に重きは則ち一身を屏退し、二に重きは則ち子孫に及び、三に重きは則ち七世に及ぶ。國の王を名づけて乙祁 と為し、貴人第一の者を大對盧と為し、第二の者は小對盧と為し、第三の者は納咄沙と為す。國の王の行くに鼓角有 り導き從う。其の衣の色は年に隨いて改易し、甲乙の年は青、丙丁の年は赤、戊己の年は黄、庚辛の年は白、壬癸の年は黑。牛有り。角甚だ長く、角を以ちて物を載せ、二十斛に勝るに至る。車有り馬車・牛車・鹿車。國人鹿を養う。 中國の牛を畜うが如く、乳を以ちて酪と為す。桑梨有り、年を經て壞(かい)せず。蒲桃多し。其の地に鐵無く銅有 り、金銀を貴ばず。市に租估(そこ/租、估ともに税金。估は一説に物の対価とも)無し。其の婚姻、婿は女の家の門 外に往き屋を作り、晨夕に灑掃(さいそう)す。年を經て女悅ばずは即ち之を驅い、相悅ばば乃ち婚を成す。婚禮は おおよそ中國と同じ。親を喪うは七日食わず、祖父母を喪うは五日食わず、兄弟伯叔姑妹は三日食わず。靈を設け神 像と為し、朝夕に拜奠(はいてん/「奠」はまつること。時期を定めてまつることを「祭」といい、時期を定めずま つることを「奠」という)し、(さいてつ=喪服)を制(さだ)めず。。嗣王立ち、三年國事を視ず。其の俗に舊 (もと)佛法無し。宋の大明二年、賓國に嘗て比丘五人有り、游(うか)び行きて其の國に至り、佛法・經像・教令・ 出家、流通し風俗遂に改まる。」と。



扶桑國の王の名前を「乙祁」という。この人物は、『日本書紀』第23代ヲケ王(顕宗天皇)か第24代オケ王(仁賢天皇)ではないかとする説があるようです。『古事記』では顕宗(ヲケ)を「意祁」、仁賢(オケ)を「袁祁」と表記。

扶桑國には車がある。三菱ふそう…クルマと言えば群馬?



女國


慧深又云「扶桑東千餘里有女國、容貌端正、色甚潔白、身體有毛、髮長委地。至二、三月、競入水則任娠、六七月產子。女人胸前無乳、項後生毛、根白、毛中有汁、以乳子、一百日能行、三四年則成人矣。見人驚避、偏畏丈夫。食鹹草如禽獸。鹹草葉似邪蒿、而氣香味鹹。」天監六年、有晉安人渡海、爲風所飄至一島、登岸、有人居止。女則如中國、而言語不可曉。男則人身而狗頭、其聲如吠。其食有小豆。其衣如布。築土爲墻、其形圓、其戶如竇云。



こちらも沙門慧深(自称・扶桑国の僧侶)が述べたことを書いている。

慧深また云う、「扶桑の東千餘里に女國有り。容貌は端正、色甚だ潔く白し。身體に毛有り。髮長く地に委(ゆだ) ぬ。二・三月に至り、競いて水に入り則ち任娠し、六・七月に子を産む。女人は胸の前に乳無く、項の後に毛生え、根は白く、毛の中に汁有り、以って子に乳す。一百日に能く行き、三・四年に則ち成人す。人を見て驚き避け、偏(すこぶ)る丈夫(じょうふ=成人した男性)を畏(おそ)る。鹹草(かんそう=「あしたば」)を食い禽獸の如し。鹹草の葉は邪蒿(じゃこう)に似て氣は香しく味は鹹(から)し」と。天監六年、晉の安人有りて海を渡り風に飄う所と為し一島に至る。岸を登り、人有り、居して止まる。女は則ち中國の如くして言語は曉(さと)るべからず。男は則ち人身にして狗頭、其の聲は吠えるが如し。其の食に小豆有り。 其の衣は布の如し。土を築き墻(しょう=かき。かこい)と為し、其の形は圓、其の戸は竇(とう=あな。あなぐら)の如しと云う。


女國の位置

扶桑國から東に約1000里、60~100キロの所にある。扶桑國が北海道より北か、もしくは太平洋上にあるので、女國は更に北か東か。



女國の風俗

容貌端正で色白。身體に毛有り。髪は長い。東北美人でしょうか。 2,3月に水に入って妊娠し、7,8月には出産する。想像妊娠で瞬く間に産み、子どもは3,4年で成人する。女は中國のようだが言語は分からず、男は犬の頭で喋り方は吠えるが如しと。作り話で人材募集の広告なのか。




文身國は関西かな。王の水銀は丹後か伊勢かで採れたものか。大漢國は関東か。さあ、どこでしょう?