chayarokurokuroの雑記ブログ

読書記録、書評、歴史(九州倭国説)など

宗像・沖ノ島の女人禁制と『魏史倭人伝』の持衰

中世が専門の歴史学者フェミニズムの学者とどうのこうので騒がれているようで呉座います。全然興味はありませんが、フェミついでに、宗像の沖ノ島の女人禁制の理由を推測してみます。
それと、前回の投稿で触れた佐賀県呼子の田島神社は宗像大社の元宮だそうですので関連ついでに。



宗像大社沖ノ島古事記にも出てくる天照大神の娘の宗像三女神のひとり、田心姫神(たごりひめのかみ)を祀る沖津宮(おきつぐう)の社殿がある島です。玄界灘に浮かび周囲4キロ、九州本土から60キロ離れている。釜山までは145キロ。
島全体が女人禁制になっており、男性でも5月27日の現地大祭以外は立入禁止だとか。2018年からは研究者を除く一般人も全面立入禁止。
なにかと神聖性を強調される沖ノ島ですが、江戸時代には福岡藩が防人を置いていたらしい。島の別称を「不言様(おいわずさま)」といい、島での見聞は一切口外を許されないとされるが、藩の学者・貝原益軒は『筑前国風土記』に防人からの詳細な聞き取りを書き残しているという。また女人禁制の歴史は17世紀までしか遡れないとか。
沖ノ島 - Wikipedia



なぜ女人禁制なの?女性差別じゃないの!
と言いたい方もおられるかもしれません。しかし、魏志倭人伝の「持衰(じさい)」を連想すると、到底近寄りがたい島かなと思える。



『魏史倭人伝』とは、中国の歴史書三國志』の「魏書巻三十・烏丸鮮卑東夷伝倭人の事です。この本で初めて卑弥呼邪馬台国が出てきます。
三國志』は西暦280年頃に陳寿によって書かれました。中身の時代は後漢から西晋(司馬懿)の中国統一まで。「魏志(魏書)」が30巻、「蜀志(蜀書)」が15巻、「呉志(呉書)」が20巻で、合計65巻で成る。
三国志 (歴史書) - Wikipedia



倭人倭国関連資料のリンクサイトを引用させてもらいます。
歴代倭人伝の縦断検索

上のサイトの「三国志」の「烏丸鮮卑東夷伝三国志30 魏書30 烏丸鮮卑東夷傳第三十の後半、「倭人、」から始まる部分に以下のような文がある。


其行來渡海詣中國、恆使一人不梳頭、不去蟣蝨、衣服垢污、不食肉、不近婦人。如喪人、名之爲持衰。若行者吉善、共顧其生口財物。若有疾病遭暴害、便欲殺之。謂、其持衰不謹

適当に訳すと、

倭人が中国詣でに海を渡る時に、常に一人、頭を洗わず、蚤も取らず、服は汚れ、肉を絶ち、婦人も近寄らず、葬式のように過ごす男を使う。これを名付けて持衰(じさい)という。もし渡航が成功すれば財産を与え、もし疾病や暴害があればこの男を殺す。持衰が謹まなかったからだと。



航海祈願で人身御供の人柱を立てる。人質も兼ねているのかも。無事に帰って来ないと大事な人が死ぬようにして逃げられない仕組みみたいな。交通安全の神社は人柱によって願掛けしてる訳です。ばーっ、恐ろしかこと! 失敗したら殺され、上手く行けば褒美を貰える。婦人を近付けられないので、女人禁制。男も一人しか入れない。5月27日に大祭ということは、その時期に船を出していたということかな?

これと似たような話が『肥前風土記』にもある。
大伴金村の三男の大伴狭手彦唐津から任那に渡る時に、奥さんの弟日姫(松浦佐用姫)が旦那の成功の願掛けで海に飛び込んで石になったという。

その他には、千葉県茂原市上総国二宮・橘樹神社の由緒や記紀で、

日本武尊が東征した際、相模から上総へ渡ろうとした時に海上で暴風に遭った。弟橘媛が海に身を投じて日本武尊の難を救ったことから、日本武尊弟橘媛の御陵を作り、弟橘媛の櫛を納めて、橘の木を植えて祀ったのに始まると伝える (橘樹神社 (茂原市) - Wikipedia



2つの話が似てる。奥方の名前も似ている。怪しい。

日本武尊の方の弟橘姫は穂積忍山の娘で、2人の間に稚武彦王をもうけたとある。
穂積忍山=穂積押山なら、時代がズレるが、押山の奥さんは蘇我韓子(孫が蘇我稲目)の娘の弟名子姫。「弟」だらけ。

大伴狭手彦の方の弟日姫(松浦佐用姫)は、呼子加部島の田島神社に祀られている。田島神社は宗像大社の元宮といい、松浦佐用姫ゆかりの神社で、御祭神も宗像三女神です。配祀神大山祇神稚武彦尊(稚武王)(=仲哀天皇の弟)。こちらにも稚武彦が登場する。稚武王って名前は雄略天皇っぽくもある。
狭手彦の兄弟に大伴咋。大山咋っぽい。


田島神社 - Wikipedia



日本武尊の子の稚武彦王と、田島神社で祀る稚武彦尊(稚武王=仲哀天皇の弟)は同一人物なのか。二人とも日本武尊の息子。
稚武彦命 - Wikipediaによると、

崇神時代の将軍まで登場。SFに挑戦。



ひもろぎ逍遙さんのブログ 加茂神社(2)七郎大明神 : ひもろぎ逍遥を引用

小城郡西多久村大字板屋の「七郎神社」の縁起が載っていた。 当社は神功皇后三韓征伐の際、武将として渡海せられたる、仲哀天皇の弟・稚武王が、凱旋後、三韓守護の為、平戸に宮居し、ついに同所に薨せらるるにおよび、その霊を勧請して、志々伎神社と号し奉祀せしが、その後、西多久村の頭領二人例夢に感じて平戸に至り、神霊を奉して帰村し、社殿を建立して勧請せり。(略)(一部変更) 稚武王(わかたけ)は仲哀天皇実弟で、武将だったが、三韓征伐の帰国途中、警護の名目で平戸島に降ろされて、そこで亡くなっている。その霊を祀るのが志々伎神社(ししき)だ。 警護の名目ながら軍隊は付けられなかったという。 島流しだった。 島から出ることなく亡くなった稚武王は哀しみの王だったのだ。



仲哀天皇の最期は香椎宮武内宿禰が琴を弾いて云々という暗殺めいたもの。仲哀の弟の稚武彦王も。兄弟そろってやられたわけですか。そして騎馬民族渡来人風の応神が次期天皇につく、と。



だいぶ脱線した。神社の禁足地は持衰や人柱を立てたりヤバい事やってた場所でもあるということで。



「国民の生活が大事なんて政治は間違っていると思います。」か?柱になれと。