chayarokurokuroの雑記ブログ

読書記録、書評、歴史(九州倭国説)など

済州島の鮮卑族禿髪阿毎、継体天皇と阿毎多利思北孤

『隋書』に出てくる「俀国(たいこく)よわよわしいという意味」の男王の阿毎・多利思北孤・阿輩雞彌は、『魏志』にも出て来る済州島の住民で州胡耽羅鮮卑と呼ばれた鮮卑族の禿髪阿毎の末裔だという説を発見。メモ。



参考リンク



記紀継体天皇の系譜は禿髪阿毎の系譜をそのまま書いているっぽい。
ちなみに『日本書紀』の継体天皇擁立シーンは三国志三顧の礼のように何度もお願いされて「そこまで言うんなら仕方ない」という感じで即位するが、これは『三国志』呉志の孫休(孫呉の三代目皇帝)の部分をパクっているという。




関連事項として、大伴金村の長男の大伴磐は筑紫に残り国政を掌り、三韓高句麗百済新羅)に対して防備を固めたという。
筑紫君磐井=大伴磐ではないのか?



一方、大伴金村の三男の大伴狭手彦は『日本書紀』によれば、宣化天皇2年(537年?)10月、新羅任那を侵攻したため、朝鮮に派遣されて任那を鎮めて百済を救った。また同書によると、欽明天皇23年(562年?)8月、大将軍として兵数万を率いて高句麗を討伐、多数の珍宝を獲て帰還したという(一本には欽明天皇11年(550年?)とする)。

肥前風土記』にも妻の弟日姫子(松浦佐用姫)との悲話が載っている。

大伴狭手彦=近江毛野でしょうか。
「おうみけな(けの)」ではなく、「大三池の」「大三毛の」にしてしまうと久留米や、大牟田あたりの武人のように思える…



もういっちょ、大伴金村の息子の阿彼布古(あひひこ)は実在を疑問視されているようだが大伴阿被比古 - Wikipedia、『肥前風土記』に登場する「宗像の郡の人珂是古(かぜこ)」のことか?
珂是古は『先代旧事本紀』に物部阿遅古連公(水間君等祖)とされる人物に比定されているとか。珂是古は荒ぶる神を静める。


それと似た話で、筑紫君と火君の先祖な甕依姫が荒ぶる神を治めたエピソード

筑後国風土記逸文 筑後國號の条      「昔、この堺の上に麁猛(アラブル)神あり、往來(ユキキ)の人、半ば生き、半ば死にき。[中略]因りて命盡(ツクシ)神と曰ひき。時に筑紫君肥君占へて、筑紫君等が 祖甕依姫(ミカヨリヒメ)を祝(ハフリ)と為して祭らしめき。それより路行く人、神に害(ソコナ)はれず。」


参考リンク




もうひとつ、継体紀の任那四県割譲で登場する哆唎国守の穂積押山は、『百済本記』では委意斯移麻岐彌と表記。オシヤマとは普通に読めないだろう。最初の「委」は漢委奴国王の金印と同じく倭国を指してるんだろうから「わ」と読んで、ワノイシイマキミと読める。倭国の石今君だ。磐井っぽい。穂積押山の妻は蘇我韓子の娘の弟名子姫蘇我韓子の子に蘇我高麗。その子に蘇我稲目
哆唎(たり)の国守でもあるから多利思北孤=「タリの彦」なんじゃないのかな。



さらに脱線、漢字の「弟」は「茅」とも書くとか。伽耶だ。糸島の可也山のカヤ、彦渚武ウガヤのカヤ、佐賀一宮與止日女神社の河上梟帥=熊襲梟帥の取石鹿文厚鹿文市乾鹿文市鹿文姉妹のカヤ。金官伽耶のカヤ。ブッダガヤのカヤ(笑)

『隋書』
- 俀王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰 此太無義理 於是訓令改之」

もしくは王朝交替のことを言っているんだろうか?筑紫君の政権から火君の政権へ。「道理に合わないからやめるように」と言われている。



高良大社の『高良玉垂宮神秘書』には「むかし西天竺から千八人が渡来した」などと書かれている。「南風」と書いてハエやハヤと読む。「千早降る」、天降りだ。九州の弥生時代が甕棺なのはインドの影響か。
南風=ハヤ・ハエは「伴跛(はえ)国」と繋がり、大伴氏とも繋がるだろう。「跛」はビッコという意味。製鉄でフイゴを踏み続ける為に職業病的に足を悪くする。『筑後国風土記』で現地の老人が語る身体障害の意味はそれを含んでいるのではないか。



『隋書』の俀国は済州島だったりして。小野妹子が国書を百済から盗まれたというのも、偽倭国だからこそ…
または隋が鮮卑族の王朝だから禿髪阿毎氏に行かせたとか。
さっぱり分からんね。



済州島鮮卑族禿髪阿毎氏。あるかもよ。