chayarokurokuroの雑記ブログ

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森博達『日本書紀 成立の真実 ー書き換えの主導者は誰かー』中央公論新社

本書は以前の投稿で触れた、『日本書紀』をα群とβ群に区分できるという森博達氏の学説に関する本です。

2011年11月初版で中央公論新社から出版。日本書紀の研究方法や、著者の学説であるα群β群区分論の研究の中身などを一般読者向けに説明したもの。
日本書紀歴史学研究というより、日本書紀の語学研究本。マジで面白い。




日本書紀』について


日本書紀』は全部で30巻あり、西暦720年にできたと言われる日本国最初の正史。
712年成立の『古事記』は序文に編纂の経緯が書かれてあるのに対し、『日本書紀』にはそれがない。
8世紀末に完成した歴史書続日本紀』の養老4年(720年)5月癸酉条に、

先是一品舎人親王奉勅修日本紀
是功成奏上 紀卅卷系圖一卷

以前から、一品舎人親王天皇の命を受けて『日本紀』の編纂に当たっていたが、この度完成し、紀三十巻と系図一巻を撰上した。

とあることから、一般的に720年の成立とされている。
タイトルは江戸時代ぐらいまでは『日本紀』と呼ばれていたようだとか、元々から『日本書紀』だったとか、説が幾つかある。

内容は神代から697年の持統天皇の譲位まで。史実と創作が混ざっている。
全て漢文で書かれているが、万葉仮名を用いて128首の和歌が記載されており、また特定の語意について訓注によって日本語(和語)で読むことが指定されている箇所がある。
漢文で書かれているため、分析するには古代の中国語の知識が必要不可欠になる。

清朝考証学と小学


中国は清代に経書を中心とする古典の実証的研究が飛躍的に発達したという。「清朝考証学」と呼ばれ、音韻学を中心とした「小学」(言語研究)の深化に基づくもの。
「小学」はもともと「大学」に対して、漢字の読み書きを教える初等教育を指していた。読み書きを出来なければ大学で経書史書を学ぶことは出来ない、ということで、清朝考証学は語言・文字の分析を重んじる。



森氏は大学3年生の時に中国語音韻学と『日本書紀』に出会い、音韻・訓詁・考拠の学によって日本書紀の分析と成立過程の研究を進めて来られたという。

坂本太郎記紀研究する前に、記紀研究せねばならぬ」

日本書紀の用語や文体を研究するのが文献史学の王道なんですよ、と。



日本書紀』区分論


森氏のα群β群区分論はどういう学説か。区分論の進化を見ていく。

日本書紀』全30巻は複数の撰者によって編纂されている。「巻14の雄略」以後とそれより前とでは、使用語句に明確な相違があるという。(現代日本語に翻訳済みの日本書紀を読んでたらこれは気付かないな…)。
この違いを初めて具体的に指摘したのは岡田正之『近代奈良朝の漢文学』(1929年)。これが書紀区分論の幕開けと著者は考えている。
戦前。意外と最近。



その後、使用語句・仮名字種・分注件数等の偏在に着目する区分論が続出し、巻1系と巻14系にほぼ二分される事が分かってくる。
この区分論の問題は、区分線が浮かぶが、それぞれの表記の性格が分からない。



次に一歩進んだ、福田良輔「書紀に見える『之』字について」(1934年)が登場した。語法分析による方法。しかしながら福田以降、異例の解釈で行き詰まり、区分論は迷路に陥る。



森氏のα群β群区分論


森氏はまず、音韻分析による区分論を立てた。漢字の「形」「音」「義」の三要素の「音」に着目。
書紀の歌謡と訓注の万葉仮名を精査した結果、漢字音の相違によって、次の二群に分類できることを発見した。(1977年「『日本書紀』歌謡における万葉仮名の一特質」等)。

  • α群
    • 巻14~21、24~27
    • 特徴:仮名は単一の字音体系(唐代北方音)に基づき、原音(漢字の中国音)によって表記されている。
  • β群
    • 巻1~13、22~23、28~29
    • 特徴:複数の字音体系に基づく仮名が混在し、倭音(漢字の日本音)によって表記されている。



以前の投稿で作った図を貼り付けます。

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α群とβ群を橙色と黄色で色分けしています。何故かα群の中に、推古と舒明のβ群が入り込んでいる。



「倭習(和習、和臭)」と「倭音」


倭習」とは、日本語の発想に基づく漢字・漢文の誤用や奇用(特殊な用法)のことを言う。

倭音」とは、音韻レベルでの倭習。
万葉仮名資料では、中国原音の無声無気音(p-,t-,k-等)の漢字は清音仮名として用いるのが原則だそうですが、α群では原則に反して濁音にも用いられている。
「水」を「瀰都(ミツ)」、「枝」を「曳多(エタ)」など、7字種・延べ11例。

α群で濁音を清音の漢字表記しているのは、日本語を母国語としない中国人が編纂しているからだと確信していると著者はいう。

書紀の古写本について声点しょうてん(アクセント符号)を調べると、異例音節は全て高平調のアクセントを持っている事が分かったという。高平調の音節は発端高度が高く、喉頭の緊張が持続するので声帯の振動が妨げられ、濁音要素が減殺される。その結果、高平調の濁音音節を中国人が清音と聞き誤ったのだとする。



こうして、音韻の分析により

  • α群 : 正音(中国語)で書かれた巻
  • β群 : 倭音で書かれた巻

に分けられた。
この次の研究として森氏は、「語彙」「語法」「文体」の倭習について調べる日本書紀の文章論に着手した(「古代の文章と『日本書紀』の成書過程」1988年B等)。



文章論の研究


文章論は、先の音韻論の結論と軌を一にするものだという。書紀には様々な倭習が大量に見られるが、それらは基本的にβ群に偏在しているという。音韻論分析で倭音で書かれたβ群は、文章論分析でも倭習に満ちている。
言ったら、β群はインチキ漢文みたいな和製漢文で書かれている。



倭習による典型的誤用の例


本書は、日本書紀における漢文の倭習的誤用・奇用の例が大量に載せてあります。
たとえば、

是玉今石上神宮。(是の玉は、今し石上神宮イソノカミノカムミヤに有り)巻6 垂仁

「有」は不特定な事物の存在を示す時に使い、特定の事物の所在には「在」を用いるのが正しい漢文。従って「アリ」という倭訓に基づく誤用という事になる。
この「有」字の誤用は16例あり、14例がβ群に偏在する。残り2例がα群。



という具合で分析されていく。30巻もあるんで膨大な作業。

α群で「有」の誤用が出てくる2箇所は、「巻26 斉明」の分注に引用された「伊吉連博徳書(いきのむらじはかとこがふみ)」の文章中という。史料名を明記し原文のまま転載した為にα群だが誤用が残った。



もうひとつ例を。不定形の使い方の誤用。

高枕而永終百年、亦快乎。(枕を高くして永トコシヘに百年を終へむこと、亦マタ快からずや)巻6 垂仁

否定詞「不」は先頭に来ないと行けないので日本語の語順になずんだ誤用だという。正しくは「不亦快乎」。
このような否定詞の位置の誤りが14例あり、12例がβ群、残り2例がα群。

α群の誤用の2例の内、ひとつは「巻17 継体」の即位を受諾する様子を描いた文章。

大臣・大連・将・相・諸臣、咸推寡人。寡人敢乖。(大臣・大連・将・相・諸臣、咸ミナ寡人を推す。寡人敢アへて乖ソムかじ)

この文章は『呉志』「孫休伝」の

「将相諸侯、咸推寡人。寡人敢不承受璽符」

による潤色文なのだという。
小島憲之上代日本文学と中国文学(上)』(1962年)によれば、潤色は日本書紀撰述の最終段階で加えられた。α群の基本的編修が終了してから、後人が潤色の際に語順を誤ったのだという。



ちょいと脱線。
なぜ『呉志』から潤色したのかな。卑弥呼時代の邪馬台国と狗奴国、魏と呉の関係を匂わせている?

孫休は呉の初代皇帝孫権の六男で、2代目孫亮の兄でもあり、3代目皇帝でもある。
2代目皇帝孫亮は朝廷の実権を握る孫綝(そん・ちん)と対立して廃位されたため、兄の孫休が次の皇帝に擁立された。三度断り三度勧められて皇帝の礼を取った。
ところが孫休は、擁立してくれた孫綝がその廃位を企てているとしてこれを誅殺、一族もろとも滅ぼし、廃位されていた孫亮をも毒殺した疑惑がある。
脱線おわり。



α群を中国人が述作した証拠として、巻14の安康天皇が皇后に「吾妹(わぎも)」と呼び掛ける様子の分注、

称妻為妹、蓋古之俗乎。(妻メを称イいて妹イモとするは、蓋ケダし古イニシヘ俗ヒトコトか)

男が妻を「吾妹(わぎも)」と呼ぶのは奈良時代でも一般的な慣習だとか。ところがα群の述作者は日本人の常識を知らなかったために「昔の習俗か」と註釈を加えている、という。



編修の順序


ここまで、森氏は『日本書紀』の音韻と文章を細かく分析することで、α群とβ群(と巻30)に区分でき、α群を中国人、β群を日本人が書いたとの確信に至ります。

次は、α群とβ群の編纂の順序はどうなってるのかに注目します。


それを解く鍵は安康天皇暗殺の記載にあるという。
α群は「巻14 雄略紀」から始まります。雄略天皇の先の天皇安康天皇です。巻14は「雄略紀」なのに先帝暗殺の経緯が詳細に記述されている。
一方、巻13は「安康紀」なのに一句で済ませ、

辞具在大泊瀬天皇紀(事の次第は雄略紀に詳しい)

と分注を施している。つまり後ろの「巻14 雄略紀」が先に暗殺の詳細を書いており、β群の「巻13 安康紀」が後で書かれた。詳細は既に後ろの巻に書かれていたので省略した。
よって、α群がβ群より先に書かれた部分とする。




各巻の述作者は誰か


森氏はα群を書いたのは渡来唐人だという。日本書紀の編纂は国家的大事業なので相応の人物が選ばれたはずであると。その最有力候補として、大学の「音博士」、続守言(ショク・シュゲン)薩弘恪(サツ・コウカク)を挙げる。恥ずかしながら初めて聞く名前です。660年頃に百済軍に捕まって日本に渡来した唐人らしい。音韻論や文章論などの緻密な研究からすると、この人物特定は根拠が薄くて、敢えて断定する必要もなさそうな気がするが、オマケみたいなものかな。



我が色眼鏡フィルターを通すと、薩弘恪の「薩」は筑紫君薩夜麻、続守言の「守」は守君大石を連想してしまう。ついでに山田史は佐賀の語源説のひとつ賢女(さかしめ)の山田、紀朝臣倭王一族で大宰府の官僚、三宅臣は筑紫三宅…



他にも、埼玉県行田の稲荷山古墳の鉄剣銘文に使われている文字「弖(て)」は中国ではなく朝鮮の影響とか、下位者から上位者へ返答する際に使用する「対曰(こたえていわく)」をアベコベに使っていたり(位が逆転している)、など沢山引用したい箇所があったが、このぐらいに。
とにかく面白い。