chayarokurokuroの雑記ブログ

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邪馬台国の外交官「都市牛利」と石上、磐鹿六雁

記紀に登場する人物と海外の歴史書の人物を照合しようとする試みは江戸時代の邪馬台国論争などでも良くやられていたようで、現在でも「天照か神功皇后卑弥呼なんじゃないか?」「伊支馬=イクメ(垂仁)で彌馬獲支=ミマキ(崇神)か?」「倭王武は雄略か?」「蘇我馬子=小野妹子=蘇因高=推古か?」「天智は百済王族の夫余豊璋か?」「天武は筑紫君薩夜麻か?」等など、ネタが尽きません。

魏志倭人伝』によると、邪馬台国卑弥呼が魏の景初2年(238年)に外交官を派遣します。

景初2年(238年)6月、卑弥呼帯方郡[2] に大夫の難升米と次使の都市牛利を遣わし、太守の劉夏に皇帝への拝謁を願い出た。劉夏はこれを許し、役人と兵士をつけて彼らを都まで送った。難升米は皇帝に謁見して、男の生口4人と女の生口6人、それに班布2匹2丈を献じた。12月に皇帝は詔書を発し、遠い土地から海を越えて倭人朝貢に来た事を悦び、卑弥呼親魏倭王と為し、金印紫綬を仮授した。皇帝は難升米と都市牛利の旅の労苦をねぎらい、難升米を率善中郎将に牛利を率善校尉に為して銀印青綬を授けた。皇帝は献上物の代償として絳地交龍(コウジコウリュウ)の錦5匹、コウジスウゾクのケイ(けおりもの)10張、センコウ50匹、紺青50匹、紺地句文の錦3匹、細班華の(けおりもの)5張、白絹50匹・金8両・五尺の刀を2ふり・銅鏡100枚、真珠、鉛丹を各50斤の莫大な下賜品を与えた。
難升米 - Wikipedia



都市牛利」という人物が次使にいます。今回はこの人物について妄想を開珍します。読み方も良く分かりませんけど。

私は邪馬台国は九州、そして7世紀終わりまでの倭国の都は邪馬台国(熊本から佐賀、福岡の有明海周辺か?)と同じ所にあったと考えています。主に隋書・旧唐書によりますが、熊本のあさぎり町の免田、福岡南部の八女山門、八女、八女津、筑紫米多君の目達原(めたばる)、佐賀大和、佐賀や朝倉の山田など、ヤマト倭面土に近い読み書きの地名がたくさんある。
そういうわけで記紀や中国の歴史書などの登場人物は九州の地名などにヒントがあるんじゃないかと色々妄想するのですけど、「都市牛利」に関係しそうな地名と言うと…まず思い浮かんだのは佐賀の「牛津」。あとは福岡県大野城の「大利(おおり)」。しかし「都市」って何だ? 音読みして「都市牛利」と書けるような単語でなきゃいかんのだろう。

奈良時代大宝律令以後に朝廷の様々な組織ができるが、料理番として安曇氏と高橋氏が争っていたという。『日本書紀』ができる前(715年)から論争は始まるとか。

安曇氏は博多湾志賀島有明海の風浪宮を拠点に古くから九州と密接に関係する。高橋氏は筑後高橋氏という大蔵氏の流れがある。立花宗茂の実父の高橋紹運はこれにあたる。

で、この論争で持ち出される「磐鹿六雁(イワ・カ・ムツ・カリ)」なる変な名前の人物は、日本書紀に登場している。景行天皇53年。

日本書紀』では「磐鹿六鴈」や「六鴈臣(むつかりのおみ)」、他文献では「磐鹿六獦命」や「磐鹿六雁命」・「伊波我牟都加利命」とも表記される。『古事記』に記載はない。
第8代孝元天皇皇子の大彦命の孫で、比古伊那許志別命(大稲腰命)の子とされる[1]。また膳臣(かしわでのおみ、膳氏:のち高橋氏)の遠祖とされるほか、現在では料理神としても信仰される。
磐鹿六鴈 - Wikipedia



高橋氏は大彦の子孫だそうだ。『新撰姓氏録』によれば、阿倍氏や筑紫君と同じ。
埼玉県行田市の埼玉古墳群にある稲荷山古墳の鉄剣銘文には「大彦」らしき人物名の数代あとに「高橋ワケ」と読める人名が記されている。

亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比
稲荷山古墳出土鉄剣 - Wikipedia



高橋氏の先祖とされる「磐鹿六雁(イワカムツカリ)」は「伊波我牟都加利」とも書くという。漢字の区切り方を変えて読むと、「イワカム・ツカリ」。「磐神・ツカリ」か?

磐神」は「石上」か!

高橋氏と石上と、何か関係あるんだろうか?
検索すると

布留の高橋

全国の高橋姓のルーツと言われる橋です。

(中略)

万葉集にも「石上 布留の高橋 高高に 妹が待つらむ 夜そ更けにける」と詠われています。
布留の高橋 | 奈良観光JP



高橋氏は奈良県天理市石上神宮と関係するらしい。石上神宮というと境内の禁足地から出てきたという「七支刀」が有名だが、七支刀は九州の倭国の「倭王」に対して369年かそれ以降に送られたものである! 『鬼滅の刃』で炭次郎の父親が踊る時に使っていたし。



旧山門郡瀬高町、現・みやま市瀬高町太神の「こうやの宮」という神社には七支刀を持った木像がある。この木像は、ここの宮司因幡氏が先祖代々祀り続けている祠に、少なくとも明治より前からあったのだという。

こうやの宮は、久留米市、高良神社所蔵の天慶神名帳磯上物部神(いそのかみもののべのかみ)と推定される。


太神地区は、大昔は海に近く、こうやの宮物部田中宮釣殿宮など15社とんどが海の神を祀り、なお、鍛冶屋が多かったことも特記すべきことである。



釣殿宮」は平城京にあるよね? 物部田中宮高良大社石清水八幡宮の関係だ。瀬高町には戦国時代以後に松野重元田中吉政が入城した。倭王系図を持つ氏族と同じ名字や物部氏ゆかりの氏族が来るなんて、意味ありげだ。

2015石上神社の七支刀とみやま市の七支刀を持つ神像・千寿の楽しい歴史 : 千寿の楽しい歴史

また、「こうやの宮」の近くに鬼滅の刃で話題になった「溝口竈門神社」がある。 「溝口」は饒速日命の末裔の「大水口」っぽい。

この近辺から10キロほど北に行けば「三沼君(水間君)」のいた三潴(みずま)という場所がある。邪馬台国の官の「彌馬獲支(ミマキ、崇神)」っぽい地名。
三潴には城島という磯城っぽい地名も。

三沼君は猿大海という名前で景行記に出てくる(たぶん)。天照が岩戸隠れをした際に裸踊りをした芸能の神アメノウズメのご主人の末裔という。
アメノウズメの末裔は猿女君(さるめのきみ)といい、後に稗田氏を名乗ったという。

天照が岩戸隠れをするきっかけになったのは、スサノオが機屋の屋根に穴を開けて、皮を剥いだ馬を投げ込んだからですが、魏志倭人伝の「投馬国」は不彌国(宇美説)から南に20日行った場所で、おそらく久留米。三潴(みずま)の直ぐ近く。久留米の高良山(こうらさん)の裏は耳納山・耳納連山(みのうさん)で、投馬国の官は彌彌彌彌那利という。朝妻・上妻・下妻・三潴と言った地名が点在。允恭天皇の名前は雄朝妻なんとか。いちいち怪しい。




脱線した。「都市牛利」と「磐鹿六雁」の話に戻します。

「磐鹿六雁」(イワ・カ・ムツ・カリ)
→「磐神・ツカリ」
→「石上・ツカリ」
→「石上・都カリ」
→「石上・都市牛利」



だいぶん強引(笑)



邪馬台国の都市牛利は(こうやの宮=高野の宮)磯上神社や石上神宮のに繋がった、という無理げな妄想でした。



追記
都市」はツチかな。「牛利」はコリだ。イシコリドメとかの凝。

磐鹿六雁=都市牛利は、「石上」+ 「ツチ」+「凝」= 金属器の石製・粘土・砂の鋳型作成と 鋳造技術の責任者だったのかも。
よく釣れる釣り針や良く切れる包丁を造って、料理番に繋げる、と。