chayarokurokuroの雑記ブログ

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佐賀県唐津市呼子町「田島神社」と宗像三女神

田島神社(たしま・じんじゃ)は佐賀県唐津市(旧肥前国松浦郡呼子)の加部島(かべ)にある神社。式内社名神大社)で、旧社格国幣中社



祭神



創建は不詳。肥前最古などと言われているようです。武雄の黒髪神社も肥前最古と言っている。わからないぐらい古くから役所的な、または王の宮殿的な何かがあったんだろうか。

配祀神稚武王が気になる。ワカタケルみたいな名前。仲哀天皇の弟だという。仲哀天皇ヤマトタケルの子で、ヤマトタケル景行天皇の子。景行天皇は和風諱号に「ワケ」が付いているが、「ワケ」は他の例では6、7世紀の人名につくことから、歴史学者からは架空の人物とされている。景行・ヤマトタケル神功皇后・仲哀・武内宿禰あたりの人物は伝説的な武勇伝を残しているが、創作だとも。

島の北部から発掘された6世紀初頭の前方後円墳「瓢塚古墳」は、日本武尊の子・稚武王の墓とする説がある Wikipedia加部島 - Wikipedia

仲哀天皇の弟なのに6世紀の古墳を比定する無茶な説。5世紀なら雄略ワカタケルと被るのだが。
稚武王は平戸で亡くなり、志々伎(ししき)神社に祀られていると。


関連リンク 加茂神社(2)七郎大明神 : ひもろぎ逍遥



加部島壱岐に近い場所にある。西には伊万里市があり、伊万里の腰岳の黒曜石は縄文時代から朝鮮半島などに運ばれたりしていた。東は唐津市内、現在の水田跡の日本最古の菜畑遺跡がある。
ここから先は壱岐まで休み無しで一気に舟を漕ぐんだろう。宿や人員の補給基地などもありそう。

昔は「姫島」・「姫神島」と呼ばれていたとWikipediaにあります。キシマ? 姫島は大分にもある。関係あるのかな?
また、「壁島」とも言われたと。島は名護屋城のある半島の東に位置し、さらに神社は島の東側にある。玄界灘の荒波を避けるような場所で「壁」。



『松浦古事記』では、天平3年(731年)に相殿に稚武王を配祀し、天平10年(738年)に聖武天皇より大伴古麻呂に詔命があり「田島大名神」の神号が贈られたとする。Wikipedia田島神社 - Wikipedia



宗像大社辺津宮市杵島姫神を祀っているが、その住所は福岡県宗像市田島。田島神社は宗像大社の元宮だという話があり、たまたま神社にいた方(宮司さんではない)に伺ってみたが「宗像三女神を祀っていますが、元宮という訳ではないんじゃないかしら?」と曖昧な返答。

溝口睦子『アマテラスの誕生』岩波新書には、宗像三女神は元々別々だったものを後世に一つにまとめたと書いてある。その辺のことも伺ってみたが、「わからない」と。



場所

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呼子から呼子大橋(無料)を渡っていける。辺鄙な漁村だが釣り客やイカ料理店のお客さんで意外と人がいた。



神社前。駐車スペースがあります。

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手水舎。大阪の平松なんとかさんが龍の水口を寄進と。

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宗像三女神な関係図

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級長津彦・級長津姫の説明に「息が長い」とある。風の神。息長氏の関係か?



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最古の肥前鳥居とあるが、新しい。

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明治~昭和の歌人、杉浦翠子(すぎうら・すいこ)の歌。埼玉県生まれ。旧姓岩崎(翠)。多摩美術大学初代学長の杉浦非水の妻。



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船着き場に面して建っている。



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左手前は松浦佐用姫(大伴狭手彦の妻)を祀る。
奥には拝殿が3つ並んでいる。



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門はいって右側。



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門はいって左手。



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読めないが、万葉集の松浦佐用姫に関する歌かなにか。



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佐與姫神
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大伴狭手彦(さでひこ)は大伴金村の三男という。松浦佐用姫は狭手彦の妻。

日本書紀』によれば、宣化天皇2年(537年?)10月、新羅任那を侵攻したため、朝鮮に派遣されて任那を鎮めて百済を救った[2]。また同書によると、欽明天皇23年(562年?)8月、大将軍として兵数万を率いて高句麗を討伐、多数の珍宝を獲て帰還したという(一本には欽明天皇11年(550年?)とする)[3]。Wikipedia大伴狭手彦より



佐用姫はかなり有名人だったようで、万葉集に彼女についての歌が幾つも載っている。狭手彦が朝鮮に渡るので泣き哀しんで、遂には石になってしまったという。人身御供なのではないかと思い、神社にいた方にこれも伺ってみたが(笑)、伝説通りの返答を頂いた。
ヤマトタケルの弟橘姫も似たような話だ。しかもヤマトタケルと弟橘姫の子供は稚武彦王という。これも稚武王に似ている。怪しい。



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浦佐與姫は篠原村長者の娘だそうだ。唐津の近辺と鏡山で訊いた。



3つの拝殿の神紋が全て違っていた。
左は丸にひし形っぽい紋、真ん中は花びらが5枚の桜っぽい紋、右は菊っぽい紋。

以下、全然写っていない紋の写真を三枚。

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由緒


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可愛らしい小さな狛犬。いぜん何処かで見た。武雄の神六鎮守神社、その他にもあったような…



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あっと、この写真、左側の拝殿のひし形の神紋が確認できる。



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曲芸師。



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明治12年、そのわりには風化が少ない。上等な石材?



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あっと、これは真ん中の拝殿。神紋が確認できる。桜っぽい。



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あっと、これは右側の拝殿。菊っぽい神紋。



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興味深い神社でした。