chayarokurokuroの雑記ブログ

読書記録、書評、歴史(九州王朝)など

九州は薄葬令が敷かれていたのでは?

薄葬令(はくそうれい)というものがあります。魏の曹操自分の墓は豪華に作るな、豪華な財宝は副葬するな、などの遺言を残していたようです。呉なども王墓は質素らしいですが、薄葬令はそれ以前の漢帝国時代から既にあったのだとか。周もあったか。
薄葬令が敷かれた理由としては「豪華で贅沢な出費や無駄な公共事業は民を疲弊させる」というもの。

朝鮮半島においては、薄葬令ではありませんけど無駄な公共事業について百済蓋鹵王(がいろ・おう、ケロワン)のエピソードがある。
蓋鹵王は碁が大好きだった。それを聞き付けた高句麗道琳という僧侶をスパイとして送り込み、蓋鹵王の囲碁相手としてお気に入りのお側つきになる事に成功した。蓋鹵王は道琳のいう事を何でも聞くようになり、言われるがままに大規模な土木工事を進めて国庫を疲弊させた。高句麗の長寿王はこれを好機とみて百済に攻め込み蓋鹵王を捕らえて処刑する。これで百済は一旦滅亡。



ところで私は邪馬台国九州説派です。漢鏡や鉄器の出土状況などが主な理由。その後も7世紀末まで倭国は九州に都を置いていたと考えています。
九州の弥生時代の墓自体は全体的に正直ショボいですが、副葬品や遺跡の出土品の先進性は全国的に圧倒しています。権力は墓のサイズをほとんど考慮して作ってません。卑弥呼頃から始まるとされる古墳時代に入っても九州はあまりデカい墓を作らない。それは漢や魏などとの外交・人質交換・政略結婚・直接的な渡来人等による「薄葬令」を含めた政治的知識の蓄積が反映しているせいもあるのではないでしょうか。
「墓作りなどに無駄な出費をするな」と。
何より、地勢的に朝鮮半島における鉄利権とか縄文時代からあったと思われる半島の倭人の土地を巡る争いとか攻め込まれたりだとか援軍要請への対応とか外交とか、常にリアルな状況に対応せざるを得ない為に、墓作りなどに勤しんではいられなかった。そんなものより古代山城や神籠石系山城(天智天皇以前より前から九州は山城を作っていただろう)で防御を固めるなどに労力を使った。



関西で巨大古墳を作り始めた人たちは、鏡を大量埋葬するといった九州の弥生時代にやっていた事を踏襲しています。それまでそんな文化は奈良には無いので、九州から移り住んだ人たちが始めたと思います。前方後円墳のモデルも九州(例えば那珂八幡古墳や赤塚古墳)など、三角縁神獣鏡も奴国がルーツ、など。

九州倭国説をとる場合に、関西で巨大古墳を作っていた理由を何かこじつけなければいけないんですが、九州中心主義的に無理やり解釈するなら、

  • 九州は弥生時代で既に倭国としてある程度まとまっていたので、王は墓のサイズで権力をアピールする必要などなかったし、何より無駄な労力。盗掘者逃れも兼ねて目立たぬようにした

  • 関西は未だ権力が定まっていなかったためにアピールする必要があった

  • 九州倭国は、秀吉の刀狩りや家康の参勤交代のように、地方豪族に巨大古墳作りをさせることにより無駄な出費をさせて骨抜きしていた

  • 九州が朝鮮半島に向き合っている隙に背後を突かれないよう、関西を骨抜きしていた

  • 九州倭国は後発の亡命人や渡来人を関西などに住まわせ、巨大古墳作りの出費させ骨抜きしていた

  • 関西は山を切り崩して巨大古墳を作ると同時に、出た土で河内湖や大阪湾の埋め立てをやっていた

  • 関西は平和だった(『梁書』等、武器は持っているが戦争はない)

  • 関西の4、5世紀に巨大古墳を作り終える頃に中心は関東に移り、権力基盤の安定化と骨抜きを始める



古墳のサイズにこだわった見方をすることが「ヤマト王権」なるものの存在を正当化する大きな理由の1つなのだろうけど、しかしそれだと江田船山古墳や宮地嶽古墳、船原古墳、藤ノ木古墳、新沢千塚126号、鍍金鏡や金銅の甲冑や馬具など豪華副葬品を出土する小さな(しかも地方の)古墳の説明が難しい。