chayarokurokuroの雑記ブログ

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ヤマト王権に立ちはだかる瀬戸内海の潮

ヤマト王権と瀬戸内海を考えてみます。

日本近海の潮の速さ

潮や船の速さを表す単位にノットがあります。1ノットは一時間あたりに1海里(=1マイル)進む速さです。

  • 1ノット = 1海里/h = 1マイル/h = 約1.8km/h

これをふまえ、

日本近海の潮の速さ

瀬戸内海は次に示すように、段違いです。

  • 鳴門海峡 : 10.5ノット(時速19.4km)
  • 来島海峡 : 10.3ノット(時速19.1km)
  • 関門海峡 : 9.4ノット(時速17.4km)
  • 大畠瀬戸 : 6.9ノット(時速12.8km)
  • 明石海峡 : 6.7ノット(時速12.4km)
  • 速吸瀬戸 : 5.7ノット(時速10.6km)

およそ平均で10ノットぐらいだとか。かなり速い。

神武天皇は瀬戸内海を東に進んでいる話になっております。そこにシオツチノジイ(塩椎神『古事記』、塩土老翁・塩筒老翁『日本書紀』)という人物が登場しますが、潮を良く知ったプロフェッショナルの先導が必要だったのだろう。瀬戸内海の航行はかなり難易度が高い。

瀬戸内海でなくとも、現在も各湾に出入りする外国船などは地元の先導が変わって操作・誘導を行うようです。



瀬戸内海は非常に流れが速く、1日に4回も流れの方向が変わり、島や岩が多くて流れが複雑、航行が難しいと言います。厳島や吉備という名前があるぐらいで、キビシイ。素人がボートで航行しようとすると簡単に転覆・座礁するほどだとか。

そのせいか、たとえば弥生時代の鉄の伝播は、九州から東は日本海側を伝わる方が早い。瀬戸内海側は出土量が少ない。瀬戸内海の潮の難しさが関係していると思われます。



船の速さ

潮の速さはだいたいわかった。次は船の速さを見ていきます。

手漕ぎのボートは約1~3ノットの速さだそうです。長崎にはペーロンというスピードが出る形状の船がありますが、それで約8ノット。船の長さは約13メートルで、乗員約30名。



一方、古墳時代の船は準構造船と呼ばれる、くり抜いた丸太船の周りに板を付けて改良したもので、乗員が15~20人程度。スピードが出るような構造ではありません。1~3ノットほどという。

潮の流れに逆らって進む際、2ノット以上の流れだと手漕ぎの船では前に進まないんですと。平均10ノットあるような瀬戸内海側の奈良・大阪のヤマト王権にとって、西の勢力との交易・物流・海軍による制圧などは、かなり困難だと考えてよいかと思う。



「なみはや」による倭の五王の航海実験

1989年(平成元年)に、大阪市は市制100週年を記念して倭の五王の航海実験を行いました。日本各地から出土する船の埴輪に基づいて「なみはや号」という準構造船を再現し、大阪から釜山(プサン)まで、700kmを35日かけて航海。

漕ぎ手は大阪市立大学の漕艇部員26名を3班に分け、伴走船に乗せ、「なみはや」には8~9名が搭乗。途中交替あり。

「なみはや」の船速が1~2ノットで非常に不安定だったらしいが、なんとか釜山までたどり着いた。しかしこれには裏があり、瀬戸内海は流れが速い為に船が前に進まず、モーターボートで引っ張ったのだとか。対馬海峡でも牽引?



ヤマト王権を現実的に考えて、結構多難。


追記
角川書店角川春樹氏が1975年に「野生号」という古代船を作って対馬海峡を手漕ぎで渡航実験をやったらしい。
釜山 → 対馬壱岐呼子 → 博多
漕ぎ手は下関水産大学のボート部員。やはり前に進まずモーターボートで引っ張ったりしたようだ。失敗と。

西九州で発見された縄文人の人骨がとんでもなく骨太で、めちゃくちゃマッチョだったのではないかと言う話があるが、海を渡るにはそれほどの肉体が必要だったのかも。

仁徳時代に鉄の盾と的をブチ抜いた的戸田宿禰や、欽明時代に百済の援軍として新羅軍の包囲網から百済王子余昌を救出した筑紫鞍橋君は騎兵の鞍橋(馬鞍の前後に付くアーチ)を射抜いてさらに鎧にまで矢が通る程の弓の威力があったという話しがありますけど、 九州倭国の海神らしくマッチョだったんだろう。知らんけど。

蛇足で、野生号は三号まであり、2号はフィリピン-鹿児島の2500㎞を44日で、3号は下田からチリの18000㎞を207日かけて航海実験成功と。



参考 : 角川春樹『わが心のヤマタイ国 古代船野性号の鎮魂歌』