chayarokurokuroの雑記ブログ

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宇佐神宮と神功皇后メモ

大分県豊前国一宮宇佐神宮は全国の八幡宮の総本社です。祭神は応神天皇、比売大神、神功皇后
そこの資料に神功皇后らしき神について気になる事が書いてあるのでメモ。

九州の宗廟、九州総社と言われているのが福岡県久留米の高良大社です。九州王朝説系の人々が倭国の都だったんじゃないかと考えているような神社で、祭神は謎の高良玉垂命八幡大神住吉大神を祀っています。その神社の『高良玉垂宮神秘書』という本に、天平勝宝元年(749年)に九州総社の地位を宇佐八幡宮に譲ったと書いてあるという。理由は不明。



その宇佐神宮の宇佐宮学頭職・神吽が由緒記録を集めて23年かけて編集し、正和二年(1313)に完成させた『宇佐八幡宮御託宣集』なる資料の中に次のような事が書かれてあるという。

香椎宮縁起にいわく、善紀元年壬寅(522年)、大唐より八幡大菩薩(大帯姫也)日本に還り給いて、廻りを見給うに、人知らざる間に御住所を求め給いて、筑前國香椎に住み居り給う。

  • 522年はまだ唐の時代ではないが大唐となっている。
  • 八幡大菩薩大帯姫としているが、息長帯姫すなわち神功皇后のことか。
  • 大帯姫(神功皇后?)は大唐からやって来たと言っている。
  • 記紀』での神功・応神時代は4世紀中頃だろうと思うが、200年ほどズレる。
  • 田川の香春神社では神功皇后らしき神の辛國息長大姫大目命を祀り、新羅の神としている。


522年というと、いわゆる磐井の乱の直前。息長=級長。風の神。息=「壱岐」か「市」なら熊襲やら倭王に繋がる古い氏族かなとは思うのだが、相当遅い時代の渡来なのか。
「大唐」と書くあたりが推古朝と被る。



他に、

又、善紀元年記にいわく、大帯姫大唐より日本に渡った後、新羅との戦いの時、懐妊の間、石を以て御腰に挿し祈りていわく、もし是れ験有る石ならば、我が胎子今七日の間生まれ給まわざれ

これも522年。



ちなみにこの引用は古田史学の会・編『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房のp.292。
この本の主旨は、大和朝廷が初めて元号を作った(建元という)のは「大宝」なのだが、この引用文にあるようにそれより前の年代で「善紀」のような年号が使われている例が全国の神社や系譜の古文書、木簡や土器の出土品など至るところから見つかるという。これらを古代史の学者は「私年号」と呼び、結構放置プレイで、古田史学はそこに噛みついている。

大化の改新」の「大化」も「大宝」より前ですが、記紀では「大化に改元した」と書いてあるのだと。要するに『記紀』は無茶苦茶。
【追記】「建元」を大宝と書いているのは『続日本紀』【追記おわり】

ついでに、

一にいわく、彦山権現、衆生に利する為、教到四年甲寅(534年)(第29代安閑天皇元年也)に摩訶陀國より如意宝珠を持ちて日本国に渡り、當山般若石屋(とうやま)に納められる。今、玉屋と号す。(第42,43、持統文武大長大宝両天のころ也)

ここでは「教到」という年号が使われている。
摩訶陀はマガダで、インドのガンジス川中流域、現在のビハール州南部の古称。紀元前5,6世紀にマガダ国が存在した。鉄鉱石の産地で、仏教発祥の地。

彦山は大分県の日田と福岡県田川の中間にある英彦山(ひこさん)。古くは日子山と書いた。天照大御神(アマテラス)の御子である、天忍穂耳命(アメノオシホミミ)がこの山に天降ったことに由来。 天忍穂耳命は田川の香春神社で祀る忍骨耳と同一かな。



年号にしろなんにしろ、仏教と中国式文化の秦王国の何かではないか。
磐井は改革派で、朝鮮半島倭人や倭系を引き揚げさせ、秦王国建国にゴーサインを出した張本人だったりして。『福岡県神社誌』では磐井は豊前側の軍を率いて物部麁鹿火軍と闘っていたと書いてあるのだとか。『筑後国風土記』の逸文では磐井は豊前に逃げて行方不明。『古事記』『日本書紀』『筑後国風土記逸文』『福岡県神社誌』がみんなバラバラ。
わからん。