chayarokurokuroの雑記ブログ

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熊襲の九州倭国

記紀』には「熊襲(クマソ)」と呼ばれる人々が登場します。大和朝廷に逆らい、従わない九州の強者集団。九州王朝説的な我が立場でこれを見ていきます。

熊襲は『記紀』のどこに登場するか

熊襲」は『古事記』と『日本書紀』のそれぞれどの天皇の部分で出てくるか



古事記熊襲

熊曾と表記されています。熊襲征伐はヤマトタケルのみ。「熊曾」の登場回数は以下の通り。

  • 景行(と倭健)・成務 / 10回と0回
  • 仲哀・神功 / 1回

ヤマトタケル小碓命といい、またの名を倭男具那命(ヤマトオグナ)、具那(二字以音)という。

倭男具那命で具那。クナですよ!狗奴国のクナ! 自分自身を自分で征伐する、自作自演っぽい(笑)。



日本書紀熊襲

古事記』がヤマトタケルのみだったのに対し、『日本書紀』では最初に景行天皇熊襲を平定します。しかし再び叛いたとしてヤマトタケルを向かわせます。その際、弓の名人である美濃国弟彦(オトヒコ)と、石占横立(イシウラノヨコタチ)、尾張田子稲置(タゴノイナキ)、乳近稲置(チヂカノイナキ)を率います。
(稲置は『日本書紀』では成務天皇から)

熊襲」の登場回数は、

ヤマトタケル小碓尊、またの名を日本童男烏具奈という。『古事記』のあからさまな「クナ」を隠したのかな(笑)。

仲哀天皇熊襲と戦ったが勝てず、その後52歳で病気で亡くなったことになっている。新羅を討てとの神の言葉を聞かなかったからだと。



神功皇后は吉備臣の祖の鴨別を遣わして熊襲の国を討ったとある。



熊襲熊襲

記紀』は熊襲をどのような人たちだと書いているか見ていきます。

熊襲とは

記紀』では、熊襲は強勇で、八十梟帥(やそたける)と呼ばれる勢力盛んな軍勢を率いた集団のように書かれています。物部八十伴雄もののふのやそとものお)を思い浮かべます。

魏志』や『後漢書』等の史料や、弥生遺跡の鉄器の出土などからしても、九州は武装集団がそれぞれでクニを作り、しのぎを削っていたことがわかる。(だから男が少ないのかな?)

熊襲は、『古事記』では「西の方に我ら兄弟に敵うものは居ない」といい、『日本書紀』でも「この国で自分たちに敵うものは居ない」という。
九州で敵なしということは、倭王でしょうか。とにかく強い。



熊襲の登場人名は『古事記』と『日本書紀』では異なり、話の内容も少し異なります。

◆『古事記』の熊襲人名

経緯は省略しますが、小碓(日本武尊)は兄の大碓の手足をもぎ取り、薦(こも)に包んで投げ捨てた。その凶暴さを恐れた景行天皇は「西の方に熊曾建(くまそたける)の兄弟二人がいる」と、追放するが如く小碓を熊襲征伐に向かわせる。

熊襲梟帥は新築祝い中で三重の軍勢で家を取り囲んでいた。彼らは宴の準備で食事の用意をしている。祝宴の日に女装して女性らに紛れて侵入し、熊襲兄弟の間に座らされて酒盛りをする。宴が最高潮の時に剣で兄弟を暗殺。



◆『日本書紀』の熊襲人名

初めは景行天皇がじきじきに征伐に向かう。
襲の国の強者として

  • 厚鹿文(アツカヤ)
  • 迮鹿文(サカヤ)
    • 手下の集団名が八十梟帥(ヤソタケル)
  • 熊襲梟帥(クマソタケル)
    • 熊襲梟帥の二人娘。容姿端正で気性も雄々しい。
      • 市乾鹿文(イチフカヤ) 姉。 景行召し上げ後、親殺しの不孝者として処刑。
      • 市鹿文(イチカヤ) 妹。火の君に嫁がせられた。


景行天皇の平定後しばらくして再び熊襲が背き、日本武尊が征伐に向かう。

  • 魁帥または梟帥(タケル) = 取石鹿文(トロシカヤ) = 川上臬帥(カワカミタケル)

古事記』と同じく熊襲梟帥の新築祝いに女装して潜り込み、容姿が良いと褒められ同席。一緒になって酔っ払っている。人がまばらになった隙に梟帥(タケル)を斬り殺し、そのあと弟彦オトヒコらを遣わして、熊襲梟帥の仲間をすべて斬らせた。残る者はなかった。



火の君に嫁がせられたという熊襲梟帥の娘の妹・市鹿文(イチカヤ)は、宗像三女神市杵島姫ではなかろうか。

熊襲

古事記』の国生み神話では、九州は4つの顔を持ち(地域に別れ)、その中の1つとして熊襲国=建日別があるとされている。また『日本書紀』では襲国とも呼ばれている。熊襲はその地域に住む人たちだと一般的には考えられているようです。

熊襲国(=建日別=襲国)の場所として、肥後国球磨郡(くまぐん。現熊本県人吉市周辺。球磨川上流域)から大隅国曽於郡(そおぐん。現鹿児島県霧島市周辺。現在の曽於市曽於郡とは領域を異にする)に居住した部族とされる。筑前国風土記逸文では「球磨囎唹」と表記。(熊襲 - Wikipedia)



九州王朝説を採る私としては、景行・仲哀天皇時代(3世紀末~4世紀中頃?)に関西の勢力(ヤマト王権)が九州倭国に攻め込み平定したといった事は認められない。あくまでも揉め事は九州内部の、たとえば倭国大乱や邪馬台国と狗奴国のバトル、九州倭国内の平定といった伝承や記録をモチーフにした作り話だろうと思う。

また、熊襲は熊本や鹿児島、宮崎など九州南部だけに居た人々を指すのではなく、九州全体もしくは日本全体に広く分布した、倭人と呼ばれる刺青をした後期縄文的で南方系の文化や形質を色濃く残した民族を指すんじゃないかと思う。中国南部にあった王姓を熊氏とする楚の国と共通した民族という人もいるが、いずれにしても刺青した人たち。

日本武尊は長身(身長3メートル)で女装して謀略を行うといった、新羅花郎を連想する人物像になっています。後の時代に登場する大伴狭手彦小狭田彦など、日本武尊のモデルになったような人物は実際に居たかとは思いますし、建部神社や杉守神社だとかは『記紀』に書いてあるから造られた神社などではないとは思います。しかし日本武尊景行天皇自体は架空だろう。

倭国は663年(または662年)に白村江で唐・新羅連合軍に大敗北した。日本武尊の人物像が新羅花郎風になっている理由はその辺にあったりするのではないだろうか。

記紀』で「熊襲」が登場する時代

上で見たように、「熊襲」は景行天皇神功皇后までの時代にだけ登場する。景行天皇の前の2代は崇神天皇垂仁天皇ですが、卑弥呼の頃だと思われます。2~3世紀半ば、西暦190~250年頃。

魏志倭人伝』によると、邪馬台国と狗奴国の交戦が原因か、卑弥呼が亡くなり、男王が立つ。しかし皆が納得せずに戦争が起こって1000人余りが亡くなる。それで13歳の女王・壹與(または臺與)が立てられる。
倭人伝』はここで終わり、そのあと5世紀の「倭の五王」と呼ばれる王たちの登場まで倭国は中国の歴史書から消えます。
この空白の4世紀にあたる時代において、『記紀』に「熊襲」が登場する。
九州内での謎を補うだけの記録が果たして残っていたかどうかは分かりません。『風土記』も逸文しか残っていない地域での歴史が失われたと思うと残念でならない。



熊襲梟帥と佐賀の與止日女神社

熊襲は九州南部に留まらないと書きました。鹿児島県霧島市には「熊襲の穴」という観光スポットがあるようですが、佐賀県にも肥前国一宮の1つ(佐賀は一宮が2つある)・與止日女神社(よどひめ)で熊襲梟帥=川上梟帥の話があります。

與止日女神社(淀姫神社)は佐賀に幾つかあります。一宮の住所は佐賀市大和町大字川上。神社の別名を河上神社ともいい、祭神の與止日女(よどひめ)は、淀姫豊玉姫豊姫世田姫など複数の別名を持つと『肥前国風土記』にある。また與止日女は神功皇后の妹ともいう(怪しいが)。

豊玉姫」はワタツミ海神の娘かつ山幸彦の奥さんで、ウガヤフキアエズの母で、神武天皇の祖母。熊襲梟帥の別名「取石鹿文(トリシカヤ)」と「ウガヤフキアエズ」の「ウガヤ」は「鹿文(カヤ)」繋がり。
「鹿文」を「シカフミ」と読めば「志賀海」っぽくなる…。

與止日女神社から1キロほど西南に「大願寺廃寺跡」という所があり、ここは熊襲梟帥の墓と伝えられます。
住所が「大和町」で「川上」、祭神である與止日女の別名の1つが「豊姫」。邪馬台国の「臺與」に関係ありそうではありませんか。
壹與(壱與)」と書けば熊襲梟帥の娘の「市乾鹿文(イチフカヤ)」「市鹿文(イチカヤ)」姉妹の「市」と関連ありげで、宗像三女神の「市杵島姫」の「市」とも関係しそう。「壱岐」もかな。

與止日女神社の北は脊振山(せふりさん、せぶりさん)です。山を越えれば伊都国の糸島。東寄りに越えれば奴国の春日市
佐賀市から西に行けば「杵島(きしま)」という、かつては島だった場所がある。『肥前風土記』によると、杵島は坤(ひつじさる・南西)から艮(うしとら・北東)にかけて三つの峯がつらなる。坤にあるのを比古神(ひこがみ)、中にあるのを比売神(ひめがみ)、艮にあるのを御子神(みこがみ)という。御子神のまたの名を軍神(いくさがみ)。この軍神が動くときはただちに戦がおこる。ノッピキならない。



杵島の東の「妻山神社」は五十猛の妹・妻津姫を祀り、「杵嶋神社」でも五十猛の妹・大屋津姫を祀る。五十猛は素盞嗚尊の息子で、かつては脊振山(せふりさん)の頂上にあった「筑紫神社」で祀られていた(現在の筑紫神社はJR原田駅そばに移り、「筑紫の神」という筑紫君と火君の先祖の甕依姫に変わっている)。また杵島の「青旗神社」は神功皇后が軍を青旗(陸軍)と白旗(海軍)に別けた青旗に由来するという。武内宿禰も武雄の出身のような感じですし、大伴氏もかつては佐賀に居たという話もあり、何かと古代の軍のメッカ。葉隠れの武士道も佐賀。



その他、熊襲と関連あるとは思いますが「熊野神社」「金隈」「月隈」「日隈」「日前」「檜隈」「神代(くましろ)」「隈」「岩隈」「大隈」など、クマの付く地名などは福岡にも大分にも佐賀にもあるので、熊襲は九州南部限定ではないのだろう。



おまけに、健磐龍、武甕槌、建御名方、武埴安彦、武夷鳥、武日など名前の最初に「タケ」の付く神はみんな熊襲じゃなかろうか。前進的に鉄器を得た九州倭国の武人が全国展開した証として。



参考 (熊襲征伐の引用)

日本書紀から

十二月、到於熊襲國。因以、伺其消息及地形之嶮易。時、熊襲有魁帥者、名取石鹿文、亦曰川上梟帥、悉集親族而欲宴。於是日本武尊、解髮作童女姿、以密伺川上梟帥之宴時、仍佩劒裀裏、入於川上梟帥之宴室、居女人之中。川上梟帥、感其童女之容姿、則携手同席、舉坏令飲而戲弄。于時也更深、人闌、川上梟帥且被酒。於是日本武尊、抽裀中之劒、刺川上梟帥之胸。 未及之死、川上梟帥叩頭曰「且待之、吾有所言。」時日本武尊、留劒待之、川上梟帥啓之曰「汝尊誰人也。」對曰「吾是大足彥天皇之子也、名曰本童男也。」川上梟帥亦啓之曰「吾是國中之强力者也、是以、當時諸人、不勝我之威力而無不從者。吾、多遇武力矣、未有若皇子者。是以、賤賊陋口以奉尊號、若聽乎。」曰「聽之。」卽啓曰「自今以後、號皇子應稱日本武皇子。」言訖乃通胸而殺之。故至于今、稱曰日本武尊、是其緣也。



古事記から

答白「朝署入廁之時、待捕、搤批而、引闕其枝、裹薦投棄。」 於是天皇、惶其御子之建荒之情而詔之「西方有熊曾建二人。是不伏无禮人等。故、取其人等。」而遣。當此之時、其御髮、結額也。爾小碓命、給其姨倭比賣命之御衣御裳、以劒納于御懷而幸行。故、到于熊曾建之家、見者、於其家邊軍圍三重、作室以居。於是、言動爲御室樂、設備食物。故遊行其傍、待其樂日。 爾臨其樂日、如童女之髮、梳垂其結御髮、服其姨之御衣御裳、既成童女之姿、交立女人之中、入坐其室內。爾熊曾建兄弟二人、見感其孃子、坐於己中而盛樂。故臨其酣時、自懷出劒、取熊曾之衣衿、以劒自其胸刺通之時、其弟建、見畏逃出。乃追、至其室之椅本、取其背皮、劒自尻刺通。 爾其熊曾建白言「莫動其刀、僕有白言。」爾暫許、押伏。於是白言「汝命者誰。」爾詔「吾者坐纒向之日代宮、所知大八嶋國、大帶日子淤斯呂和氣天皇之御子、名倭男具那王者也。意禮熊曾建二人、不伏無禮聞看而、取殺意禮詔而遣。」爾其熊曾建白「信、然也。於西方、除吾二人無建強人。然於大倭國、益吾二人而、建男者坐祁理。是以、吾獻御名。自今以後、應稱倭建御子。」是事白訖、卽如熟苽振折而殺也。故、自其時稱御名、謂倭建命。然而還上之時、山神・河神・及穴戸神、皆言向和而參上。