chayarokurokuroの雑記ブログ

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福岡県久留米市『高良山の馬蹄石と神籠石』後編

前編 の続き。
高良山大学稲荷神社前の神籠石(こうごいし)を見て回ります。高良大社に登る道路沿いに列石が見えるポイントなので、お手軽です。



大学稲荷神社の場所

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高良山へ道路で登ると右側に目立つ看板と鳥居があるのですぐ分かると思います。左側(鳥居の前)にはバス停がある。



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斜面の上に神籠石の列石が並んでいる。



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神籠石

高良山を取り囲むように、大きな長方形の列石が並んでいる。この列石を高良山では「神籠石(こうごいし)」と呼びならわしている。
現在確認されている延長は約一.六キロメートルで、千三百余りの巨石が延々と連なるが、北側は未確認である。推定線を含めると、全長は四キロメートルにも及び、高良山の四斜面を大きく取り囲んでいる。

この遺構については、磐境に類するものと考える「神境説」、朝鮮式山城と共通する特徴を持つことから、城の石垣 と考える「山城説」とが並立し、神籠石論争が繰り広げられた。

築造年代については、列石と水門のみが残っている点などから、天武天皇七年(六七八年)の筑紫国地震の被害を受けたと思われ、それ以前のものであろうと考えられる。

高良大社崇敬会
平成二十九年十二月



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即心上人墓

即心上人は、代々座主坊の財務司・目代を務めた厨家の出であり、十四歳の時に出家し、五十世座主寂源僧正に仕えて天台宗の学問を修めた。

幼い頃から聡明であり、その上一心に修行に励んだため、寂源はその徳を讃え、廃寺であった極楽寺を再興して、その住持とした。

しかし彼は栄名を願わず、毘沙門谷に庵を結び、四十五年間仙人のような生活を送った。

晩年は念仏三昧を専ら修し、毎日弥陀の名号を書いて、それを民衆に与えたという。

高良大社崇敬会
平成二十九年十二月



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このどれかが即心上人の



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「即心老和尚」とある。



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ガードレールや標識と比較すると石のサイズがだいたい分かるかと思います。福岡県・佐賀県で幾つかの神籠石を見てきたが、高良山のは特に大きい。

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最後に高良大社に参る。

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晴れていれば長崎島原の雲仙岳が見える。



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木瓜紋前漢鏡の内行花文鏡や方格規矩鏡、雷紋鏡などに似たような模様がついている。四王寺山(大宰府)で四方に開いた雲の中から高良玉垂の神が出てくる云々の伝説を形にしたものだと。
家紋や神紋は唐の時代に日本に入ってきて使われるようになったらしいが、三つ巴紋は吉野ヶ里やらから出る巴型銅器がモチーフになっているだろう(適当)。



高良山神籠石は高樹神社 の由緒にあるように、高良玉垂命高良山を一晩宿を貸したら結界を張られた、その結界が神籠石だという。時代は応神天皇の頃、360年頃か。その時代の古墳に神籠石のような切石の加工技術が使われた例はあるのだろうか?

瓦や土器など出土した物から時代を飛鳥以降と推測するのが正しいなら、女山(ぞやま)神籠石は青銅器や勾玉が出ているので、築造は弥生時代ということになるんだろうか。これが非常識なら、瓦の出土で時代を決めてしまうのも暴論とも考えられないか。



機能として、山城だろうとは思う。しかし、佐賀県の帯隈山神籠石・おつぼ山神籠石、福岡県飯塚市鹿毛馬神籠石などは低い場所にある。山城ではなく役所や屯倉では。機能がいろいろ違っていても別に変ではない。



神籠石は土に埋まっていれば風雨による浸食は極力避けられると思う。御所ヶ谷神籠石は結構浸食してて角が丸くなってますが、他の所のはあれほど削れていない。
石の浸食と材質から加工年代を科学的に推定する研究とかないのかな?無いわけないか。保存状況がわかっていれば、300年もズレないだろう。