chayarokurokuroの雑記ブログ

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『水田天満宮・恋木神社』福岡県筑後市

福岡県筑後市水田(みずた)にある九州第二天満宮水田天満宮



場所

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水田天満宮恋木神社、溝口竈門神社にピンを差した。



御由緒


水田天満宮は、御祭神 菅原道真公をお祀りいたし鎌倉時代の嘉禄二年(鎌倉時代1226年)に菅原長者大蔵卿為長朝臣後堀河天皇の勅命により建立し、明治維新までは後堀河天皇勅願所の提灯が御本殿の左右に灯されていました。

 御神領は、天文・天正年間には623町余り、豊臣秀吉時代に小早川秀包公(毛利秀包久留米城主)より 一千石、慶長6年に筑後国田中吉政公より 一千石、江戸幕府上使 松倉豊後守重政より 一千石、久留米城有馬豊氏公より二百五十石、柳川城立花宗茂公より 五十石の寄進があり、総高三千三百石を領有していました。

また、宝歴四年(1754年)水田別当延寿王院(太宰府天満宮宮司家)信貫法印は水田天満宮から入京して桃園天皇の玉体安全の祈祷を行われたと言われています。

 水田天満宮は、太宰府天満宮と御縁深く、菅原道真公の御霊魂を祀り、太宰府天満宮の重要な荘園「水田の荘」の守護神でありました。

 幕末の清河八郎新選組)の遺著「潜中始末」では「水田と申すは天満宮の鎮守処にて、太宰府に続きたる九州第二天満宮なり。」と讃えています。

御本殿は、寛文12年(1672年)に再建され、昭和36年に福岡県文化財として指定され、平成7年に2度目の再建が行われました。

 水田天満宮太宰府に次ぐ九州二大天満宮として人々の信仰は極めて篤く、その伝統を守り続けています。
【水田天満宮】へようこそ!九州二大天満宮





水田はもともと「水田荘」という太宰府天満宮の荘園だったようです。1226年(嘉禄2年)に後堀河天皇の勅命で、菅原道真の後裔で菅原氏長者(当主)の菅原為長により創建。昔の呼び名は 「安楽寺所司神人所」「老松宮」「水田天神」など。



安楽寺とあるのは太宰府の寺の名前です。菅原道真は901年に(陰謀により)太宰府へ左遷され、903年に亡くなります。葬る為に亡骸を牛車で安楽寺へ運んでいた所、牛が動かなくなった。その場所にお墓を作りました。919年にお墓の上に社殿を建てて安楽寺天満宮と呼んだ。これが現在の太宰府天満宮



道真の死後、京の都で疫病や異常気象などの不幸が続いたので「道真の祟りじゃ~」となり、醍醐天皇の勅命で天満宮を建てることになったという経緯があります。オカルト政治ですね。コロナ茶番劇をやっている現代の政治にも引き継がれております。



太宰府天満宮の創建が919年で、水田天満宮が1226年。なぜその時期に筑後天満宮を建てたのでしょうか?

現在NHK大河ドラマで『鎌倉殿』があってますが、時代はちょうどその頃。1221年に承久の乱後鳥羽上皇北条義時に敗北し、朝廷の権威は失墜。しかし鎌倉幕府創建世代の北条義時は1224年に、その翌年の1225年に北条政子大江広元らが相次いで死去し、北条義時の子北条泰時が執権になります。政治を合議で決定する「評定衆」というものが作られた。
朝廷は全国支配を放棄し、武家社会や荘園制が拡がる。太宰府の荘園である水田に天満宮を建てた理由はその辺にあるのでしょうか。このころ後家人や荘園領主、地元の領主などと争いが増え始めたようです。



一方、中国ではモンゴル帝国がメキメキと台頭し領地を拡大。1227年にはチンギス・ハーンが亡くなり、オゴデイ(オゴタイ・ハーン)があとを継ぐ。元寇はこれより50年ほど後の事ですが、周辺諸国はモンゴルの動きを脅威に感じていたかもしれません。



となりの水田公園側から入りました。

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資料館の前をぬけ、

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東側の入口から

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神社側から鳥居方向

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門のとなりは幼稚園

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鳥居の向かいに月読神社

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ここの馬の像はルンルンと跳ねている。 宮地嶽神社のは飯食ってる。何か意味が込められているのか。



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高麗狗とある


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道真の亡骸を牽いてた牛だろうか。



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拝殿から門の裏側方向



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鷽(ウソ)について



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明治維新発祥の里」だと?初めて聞いた。立花壱岐
追記 久留米の水天宮の宮司真木和泉守保臣が蟄居を命じられて水田で10年間暮らしていた。理由は藩政改革の建白を久留米藩主に提出したら却って罪を得たため。山梔窩(さんしか)という庵。水田天満宮の近くにあるようだが見に行っていない。
そういえば久留米水天宮にも復元されていた。福岡県久留米市「水天宮・総本社」 - chayarokurokuroの雑記ブログ 追記終わり



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飛梅



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本殿を右手に回ると、なにやら神社らしからぬイカガワシイ雰囲気に…



本殿の裏には…

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どピンクの神社、恋木神社(こいのき)。日本で唯一、恋命(こいのみこと)という御祭神を祀る。
意外にも創建当時からあるらしい。ピンク色の社殿などではなかったとは思うが(笑)
菅原道真が都に残してきた妻や子、または天皇に対する気持ち、御霊魂を慰める為に祀られたという。

鬼滅の刃』の甘露寺蜜璃(かんろじ・みつり)は「恋の呼吸」を使う恋柱。桜餅を食べ過ぎて髪の毛はピンク色。溝口竈門神社と恋木神社水田天満宮の管理。あのコスプレで神社回る娘さんはなかなか太い肝っ玉。



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靖国神社若宮神社など末社がありますが写真は飛ばし、神社の左側へ。池がある。

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f:id:chayarokurokuro:20220210200034j:plain 「哲学の遊歩道」西田幾多郎? 西田氏は筑後発祥の苗字らしいが。
筑後の哲学者といえば廣松渉。何でしょ?



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西の門



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さざれ石


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社門の裏側



太宰府の長官、筑紫帥・太宰帥はその時代で最も優秀な人がなりますよね。筑紫は倭国のあった場所ですし、外交の窓口・最前線です。賢くないと勤まらない。
菅原道真は「左遷」されたというけど、本当に左遷だったのだろうか?



【追記】
大宰府の長官は「大宰帥」、副長官が「大宰権帥」。弘仁年間(810~)以降、大宰帥は皇族が列せられる慣習となったため、実質的には副長官である大宰権帥が握っていた。
この正規の帥と権帥とは別に、中央で失脚した大臣の左遷ポストとして「大宰員外帥」と呼ばれる非正規職があり、道真はその大宰員外帥としての左遷だった。失脚の理由だが、元々は学者であった道真は宇多天皇の側近として重用され、醍醐天皇朝には右大臣にまでなる。学者から大臣になったのは吉備真備菅原道真の二人だけだとか。吉備真備も糸島の高祖山の怡土(いと)城の建設などやっている。しかし陰謀により道真は中央から追いやられた。
道真の母は伴氏(大伴氏)らしい。大伴氏は倭国とも太宰府とも縁が深い。