福岡県八女市の中心地にある福島八幡宮へ行きました。
戦国末期~江戸時代初期にあった福島城の櫓(やぐら)跡に建てられた神社だそうです。
また、県内で国の重要無形民俗文化財の第1号に指定された八女福島燈篭人形(からくり人形芝居)が奉納される3日間のお祭り「放生会」でにぎわうお宮として知られています。
「福島城」と名のつく城は全国に5つほどあるようですが、こちら八女市の福島城は戦国大名の筑紫広門(つくし・ひろかど)が筑後山下城(溝口竈門神社の近く)にいた時、天正15(1573)年に支城として築造。
あたりは福島城の城下町として発展しまします。関ヶ原合戦後に筑後に入った田中吉政が大改造、上妻群支配拠点としていた。
福島城の初代城主は田中吉政の三男・田中康正。
田中家2代目・田中忠政が元和6年(1620年)に没し改易となり、1621年に「一国一城令」により久留米藩主有馬氏により廃城となりました。八女は柳川藩かと思っていたが、久留米藩なのか、分かりにくい。
田中家の後に筑後に入ったのは、福島県の棚倉に飛ばされていた立花宗茂で1620年のこと。なぜか「福島」つながり。
場所
御祭神
御由緒
江戸時代初期の寛文元年(1661年)、(八女)福島城外東部にある土橋八幡宮から勧請開元された旧郷社。
土橋八幡宮を旧八幡(ふるはちまん)、この社を新八幡とも言っていました。いつのころからか、 この社は宮野町八幡宮とも呼ばれるようになりました。
いまの神殿は、安政四年(一八五七)十一月に、氏子により再建されたもの。
末社
拝殿向かって右から、
- 天満宮 菅原道真(スガワラノミコト)
- 山王宮 大山昨命(オオヤマグイノミコト)
- 素盞嗚社(祇園社) 素盞嗚尊(スサノオノミコト)
- 松尾社 大山昨命(オオヤマグイノミコト)
- 妙見宮 妙見菩薩(ミョウケンボサツ)
- 湯布賀社 倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)
- 恵比須社 事代主命(コトシロヌシノミコト)
の六社が鎮座。
祇園社は慶長十五年(1610) 六月の創建で、福島八幡宮より先にあった。城下町づくりの為に八女市大字宮野の宮野村の人たちがこちらに強制移住させられた際に勧請したものらしい。
それとは別に、筑紫広門が佐賀県鳥栖市田代から勧請した祇園社もあった。
八幡宮が作られた経緯など、詳しいことは福島八幡宮の公式サイトに載っています。
筑紫氏については、1400年の史料に初登場し、系譜は足利尊氏の子・足利直冬の末裔とか、大宰少弐氏の末裔だとか、いろんなものがあってハッキリしないとのこと。関ヶ原で立花宗茂同様に西軍についたために改易されているが、広門の子孫は江戸幕府旗本や黒田家、細川家、立花家などで続いているようです。佐賀県鳥栖の勝尾城にいた際に筑紫の氏神である筑紫神社を奉斎していたことから、筑紫君の跡を継いだ可能性も考えられていると。
名前にみんな「門」が付くのは平将門から? 筑紫を「つくし」と読むのは平群木莵の「つく」?
撮ってきた写真を。
正面の鳥居
八女市福島の町家は土蔵造りが多く、国選定重要伝統的建造物群保存地区に指定されているようで、古い町並みが保存されています。リノベーションされたお洒落なカフェなどもある。
鳥居の右側に駐車場とトイレがあります。
木瓜的な。
桐紋。
明和六年? 西暦1769年。
松延四郎兵衛は福島商人の代表的人物で、この八幡宮の正殿を寄進したのも彼を中心とした氏子のようだ。先祖は高橋紹運に仕えた武士で、商人になるために福島町に引っ越ししてきた。
松延家は高良大社の関係だよね、確か。
古墳時代から石造を作っていたような場所だからか、石灯籠なども若干凝っている。
なぜ桐紋があるのかな。
社殿の改築中。正月頃に行った。現在もまだ終わっていないようです。九州の神社は台風であちこち傷んでいる。
磁器製
組んである足場を掻い潜って
社殿右側
だんだん現場監督みたいな気分に…
湯布賀社で宇賀。湯布は意富で大だ。大加羅のことだろう。「渡来系」と一言で片付けてもよいが、しかし縄文時代からあの辺りは倭系が住んで居たりする。
ここからは神社周辺の探索へ。
神社右側、駐車場の裏、南側。福島城の堀だった。
以上です。この辺発掘調査したら邪馬台国出てくるんじゃないの(笑)