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「平塚川添遺跡」福岡県朝倉市平塚

福岡県朝倉市平塚にある有名な弥生遺跡平塚川添遺跡を見てきました。国指定史跡で「平塚川添遺跡公園」として無料公開されています。



古代史研究家の安本美典(やすもと・びてん)氏の邪馬台国説は甘木朝倉説で、その中心的遺跡がこちらとされているようです。
遺跡は紀元前1世紀頃~卑弥呼の少し後の紀元後4世紀、西暦300年頃まで続きますが、その後の時代の遺跡が続いていないためか、安本美典説は「甘木・朝倉にあった邪馬台国畿内に東遷した」という説を採っているようです。

東遷の根拠として非常に面白いのは、甘木・朝倉一帯の地名と畿内の地名が40箇所程度共通しており、地名の配置もそっくりだといいます。ただし安本説より以前の鏡味完二折口信夫が地名の共通性についての説を挙げていると。
この地が「邪馬台国」かつ「東遷」したかどうかはともかくとして、この地にあったクニや地名を(時代は不明ですが)そっくりそのまま奈良に移したか改変した可能性はありそうです。



場所

「平塚川添遺跡公園 体験学習館」にあった地図を拡大

筑後川中流の北側に位置し、広い平野の中にある。6重にも囲まれた環濠が平塚川添遺跡の特徴で、周辺にも多くの弥生遺跡が拡がっています。古くは東の高台や山の方にいた人たちが、紀元前1世紀頃から平野を開墾し始めたらしい。



平塚川添遺跡の西側は小郡市(おごおり)ですが、小郡は弥生時代中期頃に鉄器出土遺跡が最も多い。小郡の武装集団と良好な関係がなければ、集落として400年も存続出来ないだろう。
不思議なことに、小郡市でたくさん見つかる鉄器が、平塚川添遺跡では見つかっていないという。



高速道路の大分道甘木インターから5分

駐車場は、平塚川添遺跡公園のすぐ横の体験学習館に。



周辺は平野が拡がっています。襲われたら逃げ場がなさそう。



平塚川添遺跡公園 体験学習館



パネルが展示されている

西側に小石原川(こいしわら)、東に佐田川が流れる。小石原川は安本美典説では天の安川です。夜須や安川の地名が残る。八十梟帥の「ヤソ」や武埴安彦の「安」は夜須から来てるのかな? 八幡の神使の「ハト」は「八十」だったりして。

8000年前の縄文時代から人が住んでいたと。



周りもみな弥生~古墳時代の遺跡が数多く見つかる。ひとつの遺跡としてカウントすればかなり広い。
佐賀県小城市(おぎ)の土生(はぶ)遺跡は複数の遺跡の関連性の高さから合併してひとつにした、佐賀平野西部最大の遺跡ですが、平塚川添遺跡も周辺との関連性から巨大化できるw



パネルはこれくらいにして、公園へ移動

広いね。
吉野ヶ里公園は丘の上にあり、元々はミカン畑だったとか。田んぼとして利用出来ないため、広大な敷地を公園化できたと思いますけど、平塚川添遺跡も周辺の田んぼを潰して良いなら吉野ヶ里を越える公園になるんじゃないか。デカい工場がいくつもあるけど。



6重の環濠。用水路を兼ねていたんでしょうか。



環濠。吉野ヶ里ほどの深さはないが、広さは2~3倍ぐらいある。



柵の柱?がある。
纏向遺跡はこうした環濠も城柵もないので、魏志倭人伝などの倭国の描写に合わない。纏向は倭でも邪馬台国でもないだろう、99.9% 。



いくつあるんだ、環濠だらけ





道路の向こうも公園



ネズミ返しのついた高床式倉庫。
低湿地のためネズミ返しや建物の柱の基礎、木製の農耕具やテーブルの足など原形をとどめて出土。


栗やドングリが入っている。

佐賀県吉野ヶ里の近くに巨勢川があり、昭和の終わり頃に調整池を作るため調査を行った。その際偶然「東名遺跡(ひがしみょう)」という縄文遺跡が発見される。7300年前の鹿児島の鬼界カルデラ噴火寸前の遺跡。そこから、編みかごに入ったドングリが穴の中から出てきた。穴に水を貯めてドングリをカゴごと漬け込み、灰汁(アク)を取ったりしていたとか。
美味しいんだろうか?

渡ってみたが、半分腐りかけで壊れそうだった。



平塚川添遺跡からは、

  • 竪穴式住居跡が約300軒
  • 掘立柱建物跡が約100軒

確認されている。

「平塚川添遺跡」としては工場団地建設に伴う短期間の緊急確認調査だったようで、遺構や遺物の質や量も限定されたものだという。平成3年から調査が始まり平成8年に国指定史跡の平塚川添遺跡として指定、保存されたのは11ヘクタールに過ぎず、集落に対応する墳墓や水田などの調査も行われていないとか。

おや、吉野ヶ里の竪穴より浅い。





隣のお宅へ

こちらは先ほどよりは深いが、それでも浅い。作られた時代が違うんだろうか?
吉野ヶ里は紀元前5・6世紀~紀元後4世紀頃。





群馬県渋川市に「甲(よろい)の古墳人」で有名な金井東裏遺跡がある。6世紀に榛名山(はるなさん)の大噴火により埋もれた遺跡。イタリアのポンペイ遺跡のように集落が噴火によりパック詰めされたために遺跡が当時のまま発掘される。おかけで当時の状況が詳しく分かり、こうした遺跡公園の住居はそれを元に復元されているとか。



金井東裏遺跡では冬用の竪穴式住居と、夏用の竪穴式ではない住居が見つかっている。夏用の住居は竪穴を掘らない簡易的な建物で、住居跡が残らない。
先ほど書いた佐賀県の縄文遺跡東名(ひがしみょう)遺跡や奈良の纏向遺跡は住居跡が見つかっていないといわれますが、金井東裏遺跡で見つかった竪穴式ではない夏用住居のような構造だったのではないか。人が住んでないってことは無いだろうし。





こちらのお宅へ上がらせてもらいます

ごめんくださいませ



お偉方の住居だろうか



別のお宅へ

囲炉裏がある


ソリがある



消火器もある。ナウい





東側の道路を挟んで



戻ります



体験学習館には多くの出土品が展示されているわけではなく、展示パネルくらいしかない。甘木や小郡の歴史資料館へ行かなかったので、具体的にどういう物が出土したか把握していないが、

遺物は生活土器のほかに銅矛・銅鏃・鏡片・貨泉(貨泉)などの青銅製品や、農具・建築部材・漁具などの木製品が出土しているが、鉄製品は出土していない
植物はアシ・ブドウ・ハンノキ・イチイガシ・ツブラジイ・コナラ・ヤマモモなどが出土している。平塚川添遺跡 - Wikipedia

貨泉前漢を倒した王莽が作った銅貨で、12年間だけ流通したもの。
また、銅鏡については小型仿製鏡2枚、舶載の長宜子孫内行花文鏡の欠片。

三角縁神獣鏡が出土しているそうですが、これは福岡市内の旧福岡藩士宅で見つかったもので、朝倉市平塚地域の平塚大願寺方形周溝墓で出土したと伝わるものだという。甘木歴史資料館に展示。精巧に作られたものとか。

同じタイプの鏡は国内から見つかっておらず、初期段階の作例とされる。 同市小隈の神蔵古墳からも出土。山口県の御家老屋敷古墳など3カ所から出土した5枚の鏡と同じ鋳型で鋳造されたことが分かっている。三角縁神獣鏡や甲冑 福岡・朝倉市の古墳出土品を展示(1/2ページ) - 産経ニュース

上の記事では「魏で作られた」とあるが、怪しい。遼東公孫氏かなんかが作ったとかじゃないの。
奈良の大量生産品より古そうなのでそのルーツかな。知らんけど。



左側の欠けた鏡の縁にある斜めの線の紋は小石原焼の原点…

【参考】

上の画像はこちらからお借りしました。m(__)m
出土品の写真が多数掲載されている。



平塚川添遺跡は、クニの王の居住区としては場所的に平地のど真ん中過ぎて、6重の環濠でも防衛的に心細い。本拠は甘木公園とか秋月城や麻氐良布山辺りにあって、御厨的な食糧生産地区だったという感じがする。

東の福田台地から紀元前1世紀ころ降りてきて平野を開墾し、紀元後4世紀頃に環濠は埋まり、集落は終わる。その後の時代の遺跡はなく、福田台地の方は古墳時代に遺跡があるので戻ったのではとの説もある。



安本美典説では邪馬台国が「東遷」したとするが、そういうような記述は中国史には多分無いのでは(そのような記述の引用を見たことがない)。
また、『北史』や『隋書』には「倭国の都は邪靡堆で、『魏志』のいわゆる邪馬臺者也」とあり、都が移動したと認識している風には読めない。
遷都したなら『旧唐書』に「倭と日本は別種」とあったり、『新唐書』に「元々小国の日本が倭地を併合した」とはならない。場所が違うだろう。



弥生遺跡は豊富にあり、太宰府(大野城)・阿志岐山・基肄城(基山)・朝倉杷木・高良山など古代山城で取り囲まれ要塞化された地域の中心かつ博多湾有明海を結ぶ中継地でもあり、日本最古の神社のひとつという大己貴神社なども近い。古くから重要な地域だったことには違いない。



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