chayarokurokuroの雑記ブログ

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甘木地方の総鎮守「須賀神社」福岡県朝倉市甘木

今回は、甘木地方の総鎮守の須賀神社です。前回投稿の鷂天神社 はいたか・てん・じんじゃ から移動しました。



甘木・朝倉の総鎮守神社がこちらの須賀神社だとは後で知りました。日本最古級の神社だという大己貴神かな、と何となく思っていたので意外。



場所

福岡県立朝倉高校のすぐ横にあります。朝倉市の中心部にあり、かなり狭い路地に面し、見つけにくく入りにくい。



☝️ 場所名 : 朝倉市甘木須賀神社
緯度, 経度 : 33.42208 130.661606

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「甘木」というと天照の「アマ」や「ウマシマジ」の「ウマ」、武内宿禰の弟の「甘美内宿禰」の「甘」、七支刀の「倭王甘」等に関連しそうです。大牟田市にも「甘木」という地域がある。

余談で、朝倉高校は音楽家坂本龍一氏のお父さんの出身校。河出書房の編集者で『文藝』の編集長。三島由紀夫など有名な文豪らの担当をされていたとか。



区間整備された城下町の中にある感じで、広々とした専用の駐車場はない。何台か止められるスペースはあります。宮司さんか参拝者の車が止まっていました。



境内に樹齢数百年以上ほどの大きな楠木が何本かある。鳥居には「祇園社」とある。社名も「須賀神社(祇園社)」。

元は「大雄山衹園禅寺(だいゆうざんぎおんぜんじ)」と称し、臨済宗東福寺派の寺院でした。その境内にあった牛頭天王(ごずてんのう)を祀る社殿が、現在の須賀神社の前身となっています。神社の本殿は木造の三間社流破風造り(さんげんしゃながれはふづくり)といわれる神社建築でつくられ、屋根は檜皮葺(ひわだぶき)で、県の有形文化財に指定されています。また、境内にある樹齢千年の大樟も見どころです。春から秋にかけてはフクロウが巣を作り、鳴き声を聞くこともできます。夏祭りの山笠など、年間を通して様々な祭典が行われているので、季節毎に参拝するのもおすすめです。
須賀神社|ご来福スポット|「ご来福」しよう

「大祇園禅寺」。蘇我氏には名前に「雄」が付く人が幾人かいる。
博多のお寺の住職が豊国に行く途中に病気になり、そのとき夢に素盞嗚尊が出てきて回復したので社殿を建てたらしい。由緒では1320年。『甘木山安長寺考』には応長元年(1311年)建立とある。
1580年代に島津氏が太宰府に攻め入った際に社殿が火事で焼け落ちたとか。



「西宮大神宮」とは、恵比須さまを祀る神社だそうで、総本社は兵庫県西宮市にあるらしい。ところが、下のリンクに面白いことが書いてある。

須賀神社の近くの恵比須町に「西の宮大神宮」があるようですが、

3.筑紫夜須の西の宮について 神代の昔恵比須大神は、小舟にお乗りになって、東の海、南の海、北の海と漂わせ給い、はては西の海にお着きになりました。ここで、舟をお捨てになった大神は、筑紫路をさまよい、清浄な霊域をさがしていられますと須川(今の甘木川の古名)の辺りがお気に召され、ここを仮の宮居として、3年の年月をお過ごしになりました。

ときに、この地方が"西の国"にあったので、この宮居を「西の宮」と呼ばれました。かつ又、この霊域が"筑紫の夜須にあったため、精しくは「筑紫夜須の西の宮大神宮」と号し、略して、「甘木西の宮大神宮」と申すようになりました。当「恵比須袋縁起秘聞」には「これぞ日の本(やまと)恵比須の始めなり・・・。」と添え書きがなされています。以上が当「西の宮恵比須宮」そもそもの由来であります。

4.摂津の西の宮について その後、推古天皇の御代、聖徳太子は、恵比須大神をもって、特に商売繁盛の守護神と崇め給いました。更に、その後、福神として恵比須信仰が盛んとなり、摂津の国(大阪の西北部・兵庫県の南東部)に恵比須宮を創建ありし際、そのかみの筑紫路の故事にならい、社名も「西の大神宮」と称するようになりました。



神代に「恵比須大神」が甘木朝倉に3年滞在したのが朝倉市恵比須町の西宮大神宮の起こりで、それを推古時代に聖徳太子が兵庫に勧請したという。聖徳太子は架空説があるが…。

西の宮」が「ニギの宮」だと面白い。伊都国長官のニギとか一大率のニギハヤヒが恵比須さま=渡来神的な人物みたいな。
福岡県みやま市(旧・山門郡)瀬高町大神字釣殿2686番に釣殿宮という神社があります。みやま市には天智天皇が若い頃に訪れた伝承があり祀っている。境内に西の宮という祠があり物部阿志賀野神を祀られている。阿志賀とか阿志岐とか足利とかは元は同じものなのではないか。高良玉垂命の関連かなと(妄想)。



境内の続き



御祭神・由緒

祭神

素戔嗚命、大已貴大神、櫛稲田姫大神、火産霊大神、少彦名大神

由緒

当社は往昔遠く創祀されていたが兵火の為消失しその後元応二年(1320年)博多承天寺の直翁和尚の霊夢により再興創建され大雄山祇園禅寺と号し奉り禾穀成就、万民安楽の祭儀を厳修し爾来当甘木地方の氏神として崇敬の篤い神社です。





神社の前の通り





社殿



大楠

樹齢約1000年



社殿などは建て替えれば済むが、木は失われてしまえば元に戻らない。朝倉には斉明(皇極)天皇が麻氐良布山で木を切って変死する話などあり、また素盞嗚尊や五十猛に植林の話もあり、木を大切にしていたことがわかる。
日本神話に植林の話があるのは、北部九州は早くから青銅器や鉄器生産で木炭を大量消費していたからだろう。禿げ山だらけと木材不足。甕棺墓を止めたのも、石棺なら木や木炭が必要ないからではなかろうか。





イチョウ

神社に銀杏が植えてあるのはどういう理由なのだろう? 薬効?
楠には虫除け効果がありタンスの防虫剤などに成分が使われているようですけど。





写っていないがこの左側に白い倉がある。

この社倉は、文政5年(1822)に旧甘木町民の飢餓救助のために、社(集落)単位で設けられた穀類備荒庫のひとつ。稲粟百俵ずつを貯えて備荒とし、平時には住民に貸し付け、非常時には倉を開放して救済に充てたもの。また社倉前には仙涯和尚撰文揮毫による由緒碑が建てられている。社倉およびその設置由来の記録まで残るものは少なく、この社倉は県内での江戸時代末期の希少例といえる。須賀神社の社倉 附 由緒碑(県指定) | 朝倉市





楠は社殿と比べてもかなりデカいね。