chayarokurokuroの読書ブログ

読書記録、書評など

近畿に王は居ない

都護府、都督府


660年に百済が、668年に高句麗が相次いで唐により滅ぼされますが、その際にそれぞれの都には「都護府」や「都督府」という唐軍の拠点が置かれました。新羅にも663年に「鶏林州都督府」が置かれ冊封されています。

倭国はというと、663年に百済の復興の為に行った唐・新羅連合軍相手の白村江の戦いで大敗北し、唐の郭務悰らの進駐軍により太宰府に「筑紫都督府」が置かれます。 なぜ太宰府かと言えば、倭国の都が北部九州に在ったからに他なりません。王都が近畿だったなら、真っ先に近畿に置かれたでしょう。

朝鮮式山城


白村江以降の数年のうちに、防衛の為と思われますが「朝鮮式山城」を建設・改築したことが記紀に載っています。近畿には安城のたった一つだけです。
近畿に王都があったなら、もう少し防御を固めたでしょう。

国史の描写


中国正史のどれを読んでも日本に関する地名は九州とおぼしき物ばかり挙げられ、「筑紫より東は倭人の亜種」とか「筑紫より東は倭国に属する」などと適当にあしらわれた書き方がされています。
どう考えても近畿に王都が在ったと思えない扱いです。もし在ったら瀬戸内海や琵琶湖の描写ぐらい出ていると思います。



四道将軍は竹槍部隊


日本書紀崇神天皇のころに四道将軍が全国に派遣されます。卑弥呼の同時代かと思いますが、奈良には鉄器や外交の跡がありません。竹槍部隊でも組織して将軍を派遣したのでしょうか。
もちろん鉄器の豊富な九州の倭国から派遣されたでしょう。丹波道主などは高良大社宮司家の一つ「丹波氏」として残っています。

倭国は七世紀末の白村江までは存在していますし、「旧唐書」「新唐書」までは大きな体制の変化は見られないと思います。坦々と九州から全国平定し続けていたと考えられます。



記紀で近畿中心に全てを塗り替えた


「天智」は王朝最後の王の意味の込められたニックネーム、漢風諱号だといいます。
壬申の乱で天武は倭国を滅ぼし、近畿に新王朝「日本」を立て、「天皇」と号し、歴史書の編纂を命じ、その40年後の8世紀に成立した「古事記」と「日本書紀」により近畿で代々世襲天皇が政治を行ってきたという物語にした。
筑紫君磐井をはじめ平群氏や蘇我氏武内宿禰の子孫とされた一族、大伴氏や物部氏などをもことごとく天皇が滅ぼすのは、それら倭国の歴史と領土等を近畿の新王朝の下に全てを組み入れる為でしょう。倭国が白村江で弱ったところを壬申の乱で一掃出来たからこのような操作が可能だったと思います。

西嶋定生『邪馬台国と倭国 -古代日本と東アジア-』吉川弘文館 その2

その1西嶋定生『邪馬台国と倭国 -古代日本と東アジア-』吉川弘文館 その1 - chayarokurokuroの読書ブログの続きです。だらだらと引用メモ。

倭国王帥升等から倭国大乱、卑弥呼の共立


後漢の安帝即位の年(107)に倭国王帥升朝貢し、そこから倭国は70~80年ほど男王の時代が続きます。
後漢王朝ではそのちょうど同じ年の107年に中国西北部羌族=チベット族が大反乱を起こしたのをかわきりに、周辺の遊牧騎馬民族の中国や朝鮮半島への侵入が相次ぎ、鎮圧の為の多額の軍事予算が発生。歳出カットの俸給減額と歳入増加を見込んだ増税などで国内政治は次第にガタガタになっていきます。
後漢皇帝の権威は失墜し、冊封体制の国際的秩序は乱れ、それは倭にも伝わりまして178年頃に倭国大乱が起こり、数年間続きます。
181年、倭国は大乱を治めるべく女王卑弥呼を共立させました。

後漢王朝の政権崩壊


この辺から三国志の世界に突入。
後漢霊帝が189年に死去、袁紹により宦官が皆殺しにされ、董卓孫堅らが洛陽に集まり始める。
董卓と諸将との間に争いが勃発し、董卓は洛陽を焼き払って、献帝を抱えて長安に逃げる。後漢王朝の政権はこれで事実上崩壊。



遼東公孫氏の帯方郡の設置


190年、董卓により遼東太守に任ぜられていた公孫度(こうそんたく)が、董卓長安への逃亡により自立政権を作ります。
204年に公孫度が死去し、息子の公孫康(こう)が跡継ぎ、楽浪郡(平壌 付近)の南方(ソウル付近)に帯方郡を設置します。

倭・韓の帯方郡への服属


三国志魏志韓伝に「是後倭韓遂属帯方」という記述があるという。公孫康帯方郡の設置に伴い、部下の公孫謨(ぼ)と張敞(ちょう・しょう)らを派遣し韓・ワイを平定。これにより倭国と韓(三韓=馬韓辰韓弁韓)は帯方郡に服属することになったという。
卑弥呼の共立は181年、公孫康帯方郡設置は204年ですので、卑弥呼後漢王朝から離れて帯方郡の公孫氏政権に服属したことになる。



公孫氏は強国だった


公孫氏は、遼東・玄兎・楽浪・帯方の四郡と、山東半島の東萊(とうらい)地方に営州刺史を置き、東は高句麗と夫余に勢力を及ぼし、西は烏丸にも影響を与えていた強国だったという。
後漢の後ろ楯を失っている倭の卑弥呼は、強国の公孫氏に付くことが得策だと考えたのだろうと著者はいう。

2代目公孫康のあとは息子らが幼い為に、弟の公孫恭が3代目として継いだ。
228年、2代目公孫康の次男の公孫淵が、叔父である3代目公孫恭から政権を奪い取り、4代目になる。
4代目公孫淵には兄・公孫晃がいたらしいが、魏に人質として出されていた。

領土を拡げ上昇気流に乗ったかのように見えた公孫氏も、三国の渦に巻き込まれて行きます。
204年に公孫康帯方郡を設置した頃から後を見ておきます。

三国に翻弄される公孫氏


  • 208年に赤壁の戦い
  • 220年に曹操が死去。息子の曹丕後漢に変わって魏の皇帝になる。
  • 221年に蜀漢建国。
  • 222年に孫権が呉を建国。中国の三国分立。
  • 226年に文帝(曹丕)が死去。明帝即位。
  • 228年に公孫淵が叔父から政権を奪う。
  • 230年に魏は公孫淵を車騎将軍に任じる。

この辺から公孫氏は魏と呉の板挟みになり、滅亡の道に進んでいく。

232年、呉は魏の背後を突く為に公孫氏と接触をはかり、遼東に将軍の周賀ら使者を出す。公孫淵は呉に服属の申し入れをするため遣いを随伴させる。魏がこれを察知し、襲撃して呉の将軍・周賀を殺害。公孫の遣いは逃れて呉の首都建業(現・南京)に到着し上表文を提出。公孫淵を幽州と青州の2州17郡170県の封国とする燕王冊封した。

この後、公孫淵は呉を裏切り魏に日和見る。詳細は省略。

  • 233年、魏は公孫淵を大司馬・楽浪公に任じる。
  • 234年に蜀の諸葛亮の死去に伴い蜀軍退去。魏の司馬懿(い)は軍を洛陽に引き揚げた。

途中省略。

公孫氏滅亡と卑弥呼の魏への朝貢


238年に結局、魏の司馬懿公孫淵を攻撃、一族や官僚らが大虐殺され公孫氏は滅亡した。
その翌年の239年、公孫氏の後ろ楯を失った卑弥呼は早くも魏王朝朝貢をし、服属した。

卑弥呼は古臭く非論理的な鬼道なんぞで民をたぶらかすロクでもない魔女かと思いきや、なかなか国際情勢を上手く読める、さばけたキャリアウーマンのようです。



なぜ魏は倭国に格別な処遇「親魏倭王」を?


魏王朝が「親魏○王」の爵位を与えて冊封したのは、229年クシャン王朝の大月氏国に対する「親魏大月氏王」と、239年の卑弥呼の「親魏倭王」の2つのみ。

月氏の場合は、227年に蜀漢劉禅涼州月氏・庸居の地方諸国がタッグを組もうと申し入れをしたことに対する対応で、大月氏はそれら諸国の背後を突ける位置にあるからだという。



一方で卑弥呼の倭の場合はというと、魏が勘違いして倭国の位置を会稽(かいけい)郡東冶(とうや)県の東方海中にあると思っていたからだと。福建省福州市の東、つまり台湾の辺り。そこなら呉の背後を突けるぞと。邪馬台国だけで7万戸、倭国全体で15万戸以上の大国だと考えられていたとある。

確かに中国の歴史書倭国の位置を会稽を基準に書いていたりする。遣唐使の南方ルートを昔から使っていたのかというような…



三角縁神獣鏡の問題点


三角縁神獣鏡卑弥呼が魏から100枚貰った鏡だとする説があるが、

  • 中国から一枚も出ていない
  • 図柄の各要素は華北のものではなく江南系、魏ではなく呉系のもの
  • 三角縁神獣鏡の幾つかには「海東に赴いてこの鏡を製作する」という意味のことが書いてある

などの理由により、舶載鏡ではなく、魏鏡でもなく、渡来の呉人が日本で製作したものだろうと言っている。
他の資料によると日本で500枚以上出土しているそうで、ほぼ国産の大量生産品では。



長くなるのでここまで。他にも7世紀以降の「日本国の出現」など、東アジアと中国史から見た面白い論考がたくさん載った為になる本でした。

西嶋定生『邪馬台国と倭国 -古代日本と東アジア-』吉川弘文館 その1

  • 2011年9月20日第1刷発行
  • 著者略歴

1919年(大正8)岡山県生まれ。1939年東京帝国大学文学部東洋史学科入学。1942年繰り上げ卒業。1943年東方文化学院研究員。同学院が東大東洋文化研究所の合併を経て1949年東大助教授。1951年文学部に配置転換。1967年教授に昇進。1980年東大を定年退官。その後新潟大学教授・慶応大学客員教授・就実女子大学教授を歴任。1998年7月に79歳で死去。

本書は、中国史学者である著者が異なる時期に邪馬台国倭国などについて書いたり話したりした論考の中から適当なものを拾い集めて一冊の本にまとめたもの。
著者による「あとがき」に、「くりかえしくりかえし現れる説明の重複があり、また解釈の内容に微妙な不協和音があっても、これらをすべて取り除くことは不可能なことであった。」とあるように、何度も同じことが出てくる。読者の忘却曲線に配慮した親切設計。1994年刊行。

本末にある国学院大学の金子修一教授の解説によると、西嶋氏は1962年の『六-八世紀の東アジア』で唐以前の東アジアの国際社会を規律する秩序として「冊封体制」があったことを初めて主張したという。また『中国古代帝国の形成と構造』と併せて、東アジアの冊封体制の枠組みの中における日本の歴史の理解の必要性を提起した。

「日本の歴史を東アジアの視野で把握することにより、明治以降の独善的な歴史解釈を排除しようとする強い意志のあることは見逃すべきではない」と述べる。
著者は青春時代を大戦中に過ごされておられるためか、「東アジアに対する多大な惨禍を与えた上で自滅した近代日本に対する痛切な反省がある」という。

雑感


卑弥呼邪馬台国倭国などは中国や朝鮮の歴史書にしか出てきません。本書は中国史家の目線で当時の状況を読み解いて行きます。「三國志」の拡張版の中に卑弥呼が出てくる感じですかね。横山・吉川三國志コーエーのゲームに卑弥呼倭国は出てきたっけ?

倭国がどういう状況に置かれ動いていたかを東アジアの冊封体制という枠組みを考慮することにより把握します。邪馬台国の場所探しなどは一切ありません。読んで「なるほど」とおもう箇所多数。また、凄く慎重に論じてある印象を受けた。戦中派歴史家の歴史学に対する責任感の表れでしょうか。
何と言っても著者は大豪族「吉備」の岡山県出身。「ヤマト王権中心の歴史観なんて嘘っぱちを誰が認められるか!」というような反発心と事実への探究心が根っこにあるのではないかと思ったり。

具体的内容


気になる箇所のメモなど。


前漢衛氏朝鮮を滅ぼし四郡設置


ざっと漢帝国の流れを見ておくと

  1. 前漢 : 紀元前206年~8年。
  2. 一旦滅亡 : 重臣の王莽に一旦滅ぼされる。
  3. 後漢 : 25年に漢皇族の劉秀(光武帝)により再興される。
  4. 後漢滅亡 : 220年。

朝鮮では
前漢武帝が元封三年(前108年)に衛氏朝鮮を滅ぼし、

  • 楽浪(らくろう)郡
  • 真蕃(しんばん)郡
  • 玄兎(げんと)郡
  • 臨屯(りんとん)郡

の四郡を置いた。
朝鮮半島に上記の四郡のうちの楽浪郡を置いた際に倭人の所在が明らかになったそうです。
関係ないけど「玄兎郡」が気になる。「」の文字が…

倭人の歴史デビューと『漢書』地理志


班固なる人物が後漢時代に著した『漢書』の「地理志」という項目に、楽浪郡と絡んで歴史に初めて倭人が登場する。
後漢時代に書かれたものだが、内容は前漢の歴史。
楽浪郡は現在の平壌付近。

「楽浪海中倭人、分為百餘国、以歳時来献見云」


時代は弥生中期です。倭人は律儀にしょっちゅう顔見せに行っていたようです。
弥生中期頃までの遺跡で前漢鏡の出ている所は、この時代の倭国の中の国か。ほとんど九州だろうけど。

漢書』以外


実は『漢書』以外で、もう少し古そうな時代の倭人について言及されたものがあるとか。

  • 後漢の王充『論衡(ろんこう)』
    • 周の時代にお酒に匂いをつける鬯草(ちょうそう)なる草を献上した記事
  • 戦国時代?漢代?『山海経(せんがいきょう)』
    • 書かれた時代は不明
    • 倭が燕に属しているという記事

これらははっきりと確かなことが言えないので、信用できる歴史書での倭人初登場記事としては『漢書』地理志としている。



後漢光武帝倭奴国王に印綬


25年に後漢を再興した光武帝が中元二年(57年)、倭奴国王に印綬(志賀島の金印のこと)を与えた記録が『後漢書』に2ヶ所ある。

倭の奴国の使者は光武帝が亡くなる前の月に洛陽に到着していた。正月の祝賀に参加して朝貢と。そこで印綬を与えられたことにより漢王朝冊封に組み込まれ、周辺諸国と国際的秩序が作り出される。
西嶋氏はこのようなものを「冊封体制」(さくほう)と名付け、現在でも広く使用される用語になった。

冊封


冊封(さくほう)に組み込まれると、これを媒介に海外から色んな文物が伝わって来る。幾つかの決まりがありギブアンドテイクで地域安定化をはかる。
朝貢の際には上表文を持参しなければならない。つまり文書外交を行う事が求められるた。倭国にはちゃんと官僚が居た訳ですね。
竹簡・木簡に漢字で文書を書き、それを紐で巻いて結び目に粘土を付け、その粘土に与えられたを押して封印する。倭人の官僚らは当然漢字の読み書きが出来ただろうと。
紙の発明前漢時代の紀元前150年頃といわれ、実用的なものは後漢時代の105年に蔡倫が発明したと『後漢書』にあるらしいが、普及はそのまだ後という。ただでさえ中国の歴史書はボリュームがある。竹や木に書いて保管してたということは、凄まじい物量だろう。歴史編纂に掛ける予算と年月が半端じゃない。
徳がなきゃこんなことやらないね。

文書外交と漢字の使用


日本では古代の文書の証拠が出ていないようですが、硯の出土のニュースはちょくちょく耳にする。
朝鮮半島では1988年、慶尚南道の義昌郡茶戸里(ちゃどり)で前1世紀後半と推定される木棺墓から様々な副葬品と共に毛筆の軸が発見された。弁韓加羅伽耶などと呼ばれていた半島南部で釜山の近く。九州まで直ぐの距離。文字文化の見直しの必要があるかもしれないという。

冊封、王道思想と儒教


小国は冊封により中国皇帝の権威を背景に地域内での地位を高められることは想像しやすいが、中国の立場から小国と結ぶメリットはあるんだろうか?

中国の国家観念として「天子とはかくあるべし」と云う理想像があるという。王道思想といい、それを取り入れたのが儒教

  1. 天子は有徳の君子でなければならない。
  2. 王者は覇者であってはならない。
    1. 覇道は武力を用いて治めるもの。
    2. 王道は徳をもって治めるもの。
  3. その政治は覇道ではなく王道でなければならない。

というような国家観念。
「乱世の奸雄」と誉めてるのか貶してるのか分からない言われ方をする曹操は、王道や儒教的にはアウトなニュアンスだろうか。

曖昧模糊な「徳」の観念ですが、「有徳の君子」かどうかを証明する方法として利用されたのが「中華思想」と「王化思想」。



中華思想


ラーメンとチャーハンと餃子は中華の王道(違
中華思想とは華夷(かい)思想である。華夷とは「漢民族(華)」と「異民族(夷)」を分け、漢民族が中華で最も立派だとする。周りの諸民族は夷狄(いてき)であり、中華より劣る、という思想だとする。ユダヤ教選民思想なんかと似てますかね。
ここで、「漢民族は何故優れているのか、夷狄は何故劣るのか」という価値判断の基準が必要になる。

華夷思想の価値基準「礼」


華夷思想の価値判断基準には「礼」という概念を用いる。
漢民族には「礼」が備わり、夷狄にはそれがない。「礼」が備わっていないので夷狄である。「礼」がないのは鳥や獣と同じである。夷狄は父が死んだらその女を自分の妻にする。そういうのは「礼」がない証拠だ。云々と、要は民族の風習の違いに過ぎないのであるが、古代中国社会における日常生活の規範が「礼」とされた。



「礼」を知らぬ夷狄に対する有徳


古代漢民族の日常生活の規範である「礼」を知らぬ夷狄が使者を派遣し朝貢してくるのは、天子の徳を慕っている証拠である。天子の徳が遥か国外まで伝わり慕ってやってくる、天子の徳に同化されることを願って来朝してくるのだ。という理屈で天子の徳があるかどうかを判断する。
従って、倭国の中の1万戸ほどしか居ない奴国のような小国からでも遠く遥々やって来たことを非常に歓迎し大切にしたのだという。どんな小さな部族に対しても同じ。
フォロワーを増やして喜ぶ感じか。
中国皇帝は朝貢の献上品より豪華で皇帝に相応しい品物を与える為に、かなり財政に負担だったと何かにあった。損して徳取れ?

倭国王帥升等遣使朝貢


後漢書』倭伝の安帝の永初元年(107)、倭国王帥升等」が朝貢に来たと記録にある。倭の奴国王に金印を与えた50年後のことです。
名前が三文字の「帥升等」なのか、複数形の意味の「帥升ら」などは不明。
中国考古研究所の王仲殊先生は複数形ではなく三文字の名前として解釈していると紹介されている。

なお、宮内庁書陵部の所蔵する北宋刊本の『通典』には、『後漢書』と同じ内容が「倭面土国王師升等」となっているそうです。

  • 「帥」が「師」
  • 倭国王」が「倭面土国王」

になっている。この他にも「倭面上国」と書いたもの等があり、鎌倉・室町時代から議論があるらしい。

面上国とか面土国って、昨日大雨で土砂災害のあった熊本県球磨郡あさぎり町免田なんじゃない?日本で3例しか出土していないスーパー貴重な鍍金鏡の出た才園古墳があるような所ですし…



倭国大乱


倭国大乱」について、『魏志倭人伝、『後漢書』倭伝、『晋書』(唐代の編纂)、『梁書東夷伝(同じく唐代)に記録があるという。それらから判断すると、後漢の光和年間、178年~184年の間に発生したようです。数年間荒れる。
107年の倭王帥升等の朝貢から大乱までがちょうど約7、80年。その間は男王が上手くやっていた。

掲載の年表を見ると西暦150年頃から鮮卑匈奴烏桓がほぼ毎年中国に侵略を仕掛けている。184年に黄巾の乱袁紹董卓公孫度曹操などが出てくる。後漢皇帝の権威が落ちている時代での倭国大乱。

だが、107年の帥升等による朝貢の年に既に中国で最初の動乱が起こったという。先零羌の乱という。



先零羌の乱(107~118年)


先零羌(せんれいきょう)とは中国西北部に居たチベット族=羌族の一派のこと。
羌族前漢時代から歴史に登場し、後漢時代に度々反乱を起こした。後漢王朝はこれを屈服させて中国国内の陝西省(せんせいしょう)から山西省の地域に強制移住させてきたという。
後漢の三代までは王朝の力が強く羌族を屈服させていたが、安帝以降は状況が変わる。倭国王帥升朝貢した安帝即位の永初元年に、強制移住させられていた羌族の一部族である先零羌が大反乱を起こした。

この大反乱は107~118年の12年間続き、鎮圧の為の軍事予算が大変な額になる。年間予算の2/3を使った計算になるという。
日本の予算に換算してみると、年間約100兆円として年間約5.5兆円。
羌族の反乱の鎮圧だけで毎年5.5兆円の軍事費。12年で約70兆円。 これは痛い。

高句麗他が玄兎郡に侵入(111、118年)


チベット族=羌族の反乱を鎮圧する最中、永初五年(111)に高句麗が玄兎郡(げんと)に侵入。
元初五年(118)に高句麗、ワイ、貊(ハク)が玄兎郡に侵入。
安帝の末年には鮮卑まで玄兎郡に侵入。

玄兎郡は初めは朝鮮半島の中にあったが、その後は鴨緑江(おうりょくこう)中流、のちの高句麗の都になる丸都(がんと)に移る。玄都と丸都はほぼ同音だとか。

その後も礼を知らない野蛮な夷狄が次々と中国を侵略しまくる。
後漢王朝は予算不足になり官僚の俸給を減額。歳入を増やすために官僚の階級を売りに出し始め質の低下を引き起こす。土地税を増税。悪徳宦官が蔓延る。等々。もうめちゃくちゃ。

卑弥呼を共立


107年に帥升等が朝貢した年に羌族が大反乱を起こし、その後も蕃族が次々と後漢朝鮮半島に侵入、後漢皇帝の権威はもはや無いに等しく、冊封体制の国際的秩序が崩壊する状況の中、倭国でも178年頃に倭国大乱が起こります。
気候変動か何かがあったのかな?異常な感じ。

そして遂に181年頃、倭国は女王卑弥呼を共立、倭国王とした。卑弥呼の国の都があったのが邪馬台国
「あーもう、きさんら何ばしよっとか、こんバカチンが!」と男どもを蹴散らかしていたという(嘘
中国正史にはよく「倭国は男が少ない」と書いてある。記紀で九州は女のリーダーがたくさん出てきますね。殉死や過労死の多い過酷な環境だったのかしら。



一旦ここで切ります。続きは卑弥呼共立の背景から。

壱岐真根子の埋葬地伝承「伏尸神社」佐賀県武雄市若木町大字川古

「伏尸神社」(ふしし・じんじゃ)は「川古の大楠」の正面にあります。若木小学校の体育館横。武内宿禰の身代わりで自刃した壱岐真根子の埋葬地と伝わるらしい神社。高良大社の本殿右側にある壱岐真根子神社の壱岐真根子です。



f:id:chayarokurokuro:20200624171752j:plain



「川古の大楠」の駐車場から通りを渡った左斜めにこの鳥居が見える

f:id:chayarokurokuro:20200624171850j:plain

神社の右側は小学校の体育館があります

f:id:chayarokurokuro:20200624172027j:plain

f:id:chayarokurokuro:20200624172105j:plain

f:id:chayarokurokuro:20200624172207j:plain

f:id:chayarokurokuro:20200624172225j:plain

f:id:chayarokurokuro:20200624172452j:plain
犬が頭を下げお尻を上げるのは遊びに誘うポーズだって。

f:id:chayarokurokuro:20200624172558j:plain

f:id:chayarokurokuro:20200624172617j:plain
右も左も同じポーズ。



社殿ひだりの建物

f:id:chayarokurokuro:20200624172737j:plain

f:id:chayarokurokuro:20200624172802j:plain

f:id:chayarokurokuro:20200624172839j:plain

f:id:chayarokurokuro:20200624172903j:plain

f:id:chayarokurokuro:20200624172952j:plain

f:id:chayarokurokuro:20200624173027j:plain

九曜紋。壱岐氏は弥生文明末裔のキングクラスな感じだろうか。



壱岐真根子について


壱岐真根子 - Wikipedia

壱岐真根子

  • 日本書紀
    「壱伎直祖真根子(いきのあたいがおやまねこ)」
  • 他文献
    「真根子命」とも表記される。
  • 古事記
    記載はない。

    壱岐直(壱岐氏/壱伎氏/伊伎氏/伊吉氏)の遠祖である。

系譜

  • 日本書紀』 真根子の系譜に関する詳しい記載はない。
  • 松尾社家系図(歌荒洲田卜部伊伎氏本系帳)」 「真根子命」の父を雷大臣命、母を武内宿禰の妹とする。
    • 雷大臣命について
      新撰姓氏録』右京神別 天神 壱伎直条等において、天児屋命(中臣氏祖神)後裔かつ壱伎直ら諸氏族の祖に位置づけられる人物である。



記録



松尾社家系図では壱岐氏が中臣氏・卜部氏の先祖なのね。
雷大臣とは武甕槌、建雷命のことだな。
武雄の武で筑紫のタケ、近所に朝日町中野の地名もあり、かつては甕棺の風習もあり、糸島の雷山から南下すれば倭王の系譜が武雄に繋がりがあることが何となく見える。
続きを。



f:id:chayarokurokuro:20200624175926j:plain

f:id:chayarokurokuro:20200624175944j:plain

f:id:chayarokurokuro:20200624180005j:plain

f:id:chayarokurokuro:20200624180047j:plain

f:id:chayarokurokuro:20200624180111j:plain

f:id:chayarokurokuro:20200624180202j:plain

f:id:chayarokurokuro:20200624180229j:plain

f:id:chayarokurokuro:20200624180248j:plain

f:id:chayarokurokuro:20200624180314j:plain

f:id:chayarokurokuro:20200624180334j:plain

f:id:chayarokurokuro:20200624180352j:plain

f:id:chayarokurokuro:20200624180426j:plain



社殿ひだりに金比羅さん。
だいぶんボロボロ

f:id:chayarokurokuro:20200624180451j:plain

f:id:chayarokurokuro:20200624180525j:plain

f:id:chayarokurokuro:20200624180540j:plain



真根子さんの古墳はここには無さそうです。直に埋葬したのかな。

九州のこうした小さな神社こそが倭の真実を語っているかもね。と思う。
朝鮮を統一した新羅と唐に対しては建前を重視、倭の中心残党は岸信介的な方向に。坂本太郎みたいなのが正にそうですよね、知らんけど。ファンタ自慰。いやコーラ。

樹齢3000年「川古の大楠」佐賀県武雄市若木町川古

武雄市若木町大字川古(かわご)の「川古の大楠」を見てきました。樹齢3000年以上。日本国内5位、佐賀県内1位の大きさ。



f:id:chayarokurokuro:20200623215247j:plain
高さはそこまでないけど幹が太い。確実に妖力もってるでしょこれ。

f:id:chayarokurokuro:20200623220103j:plain
山口先生?



f:id:chayarokurokuro:20200623220153j:plain

f:id:chayarokurokuro:20200623220226j:plain

f:id:chayarokurokuro:20200623220242j:plain
根っこの左に猪の等身大ほどの模型が籠に捕まっている。
楠木と猪は日本神話の一部を表してそう。何でしたっけ。

ぐるりと公園を左回り

f:id:chayarokurokuro:20200623220738j:plain

f:id:chayarokurokuro:20200623220935j:plain

f:id:chayarokurokuro:20200623220959j:plain

f:id:chayarokurokuro:20200623221103j:plain
武埴安媛の名前がある。武雄出身なのかな?



f:id:chayarokurokuro:20200623221332j:plain

f:id:chayarokurokuro:20200623221352j:plain
戦国時代の武士らを祀る。

f:id:chayarokurokuro:20200623221439j:plain

f:id:chayarokurokuro:20200623221458j:plain

f:id:chayarokurokuro:20200623221539j:plain

f:id:chayarokurokuro:20200623221606j:plain
稲荷神社



f:id:chayarokurokuro:20200623221710j:plain
向こうで写真撮影されております。



f:id:chayarokurokuro:20200623221813j:plain

f:id:chayarokurokuro:20200623221832j:plain

f:id:chayarokurokuro:20200623221910j:plain

f:id:chayarokurokuro:20200623221937j:plain

f:id:chayarokurokuro:20200623222035j:plain

f:id:chayarokurokuro:20200623222112j:plain
樹齢3000年


f:id:chayarokurokuro:20200623222205j:plain
樹高25m、幹回り21m、枝張り27m



駐車場も広く、公園もキレイに整備されて気持ちの良い場所です。
(^^)d

佐賀県武雄市朝日町中野川上「淀姫神社」

磐井八幡宮から北上していて偶然みつけました。

なんと肥前国一之宮「與止日女神社(河上神社)」で祀られる與止日女=淀姫=豊姫がこの地で亡くなったと由緒の案内板にある。



f:id:chayarokurokuro:20200623183233j:plain



肥前国一之宮「與止日女神社」(よどひめじんじゃ)の投稿
佐賀県佐賀市『與止日女神社』(別称 河上神社、淀姫神社) - chayarokurokuroの読書ブログ

淀姫(=與止日女=豊姫)は神功皇后の妹とか。4世紀ぐらいの人物か。



右カーブの左側正面にこの鳥居が目立つように立つ。引き込まれた。

f:id:chayarokurokuro:20200623185238j:plain

f:id:chayarokurokuro:20200623185505j:plain
鳥居の右に石が。

f:id:chayarokurokuro:20200623185555j:plain



左にも石

f:id:chayarokurokuro:20200623185632j:plain

f:id:chayarokurokuro:20200623185714j:plain

左側に川が流れています。

f:id:chayarokurokuro:20200623185753j:plain

f:id:chayarokurokuro:20200623185811j:plain

f:id:chayarokurokuro:20200623185856j:plain
曲芸師。逆立ちしてる。身体中に花の装飾。

f:id:chayarokurokuro:20200623190019j:plain

f:id:chayarokurokuro:20200623190055j:plain



姫神
f:id:chayarokurokuro:20200623190121j:plain

  • 祭神 淀姫命、他六柱
  • 創建年 不詳
  • 例祭 7月29日
  • おくんち 10月23日
  • 由緒

    姫神社の祭神は、神功皇后の妹の淀姫命で、またの名を豊姫ともいい、朝日村の村柱であった。
    神社の創建のいわれは、神功皇后朝鮮出兵の時、妹の淀姫が後をしたって武雄温泉に来られ、丸山の風景をながめ、長旅の疲れを慰められたという。
    皇后の旅立たれた後、淀姫は二十二歳の若さでここ川上の地で亡くなり、御霊を祀るため建てられたと伝えられている。
    この神社には明神鳥居と呼ばれる鳥居が二つあり、
    一の鳥居は正徳六年(1716年)建立、
    二の鳥居は大正六年(1917年)に建てられている。



f:id:chayarokurokuro:20200623191854j:plain
二の鳥居。



f:id:chayarokurokuro:20200623192009j:plain

f:id:chayarokurokuro:20200623183233j:plain

f:id:chayarokurokuro:20200623192052j:plain

f:id:chayarokurokuro:20200623192122j:plain

f:id:chayarokurokuro:20200623192211j:plain
菊の御紋と、武雄鍋島の地だからか杏葉紋、瓦は三つ巴紋。



f:id:chayarokurokuro:20200623192423j:plain
新しげ。

f:id:chayarokurokuro:20200623192507j:plain

f:id:chayarokurokuro:20200623192525j:plain

f:id:chayarokurokuro:20200623192557j:plain

f:id:chayarokurokuro:20200623192625j:plain

f:id:chayarokurokuro:20200623192658j:plain

f:id:chayarokurokuro:20200623192724j:plain

f:id:chayarokurokuro:20200623192757j:plain



4世紀頃で皇后の妹なら古墳ぐらいあって良さそうなもんだが、神社内には無さそう。祭神の「他六柱」も気になる。川上梟帥と淀姫の関係が一番気になる。