chayarokurokuroの雑記ブログ

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「石人山古墳と弘化谷古墳」福岡県八女郡広川町一条(後編)

石人山古墳の続き。

今回は弘化谷古墳(こうかだに)。石人山古墳の横にあります。3色で彩られた肥後系統の石屋形を備えた6世紀築造の円墳。双脚輪状文(そうきゃくりんじょうもん)という『ゲゲゲの鬼太郎』の目玉の親父のような文様の入った、全国で4例しかない珍しい装飾古墳です。(埴輪など含め双脚輪状文は全国で8例 13例のみ)

石室内部の公開は4月と11月の年2回。今年はコロナ茶番で4月の公開無し。



駐車場は広川町古墳資料館(こふんピアひろかわ)へ。



石人山古墳の所々に「弘化谷古墳 ⇒」の看板があるので追う。

八女古墳群は丘陵を利用して作られており、アップタウンがある。



左側に池

石人山古墳の周濠は幅1.5m。周濠にしては大きすぎる。飲み水用の池だったのかな? 食糧淡水魚調達用? 遺跡の近くには大概池がある。湧き水のある所には神社がある。



階段を登ると



右側のヤブの中にも不自然に盛り上がった所がいくつかある。古墳かな? (何でも古墳に見える病)



突き当たりは行き止まり



振り返って

前方の階段を登ると公園、駐車場、トイレ、古墳。

これが弘化谷古墳。果樹園造成中に偶然発見された円墳の装飾古墳。
キレイに整備されているのは、昭和に果樹園造成中に気づかず墳丘を半分ほどガッツリ壊してしまった為。それで石室は3分の1壊れた。



右側に回り込む

国指定史跡八女古墳群 (昭和52年 7月19日 指定)

弘化谷古墳(こうかだにこふん)

広川町教育委員会

1 所在地 福岡県八女郡広川町大字広川字弘化谷

2 築造年代 6世紀中ごろ (古墳時代後期)

3 外形 高さ約7m、直径約39mに復原される2段築成の円墳濠と周堤を含めた外径は、約55mとみられ、当地方では最大である。

4 石室 西南西に開口する横穴式石室で、昭和45年3月に果樹園造成工事中に発見されたため大破したが、単室と推定される。割石(わりいし)を積み上げた石室の正面に、県内では珍しい肥後系統の石屋形(いしやがた)を設置しているのが大きな特色である。石室は、現存、長約4.5m、最大巾4.1m、高さ3.6m。

5 出土品 盗掘を受けているため、イヤリング・管玉(くだたま) ヤジリ、土器など、副葬品の一部が残っていたにすぎない。

6 壁画
石屋形の奥壁、両側壁・天井石の内面と前面小口の計7面に、赤・緑・黄の3色で三角形文・双脚輪状文(そうきゃくりんじょうもん)・円文・矢筒(やづつ)(靫(ゆき))などを描き、上段の7個の靫だけは輪郭を線刻する。なお、双脚輪状文は、桂川町(けいせんまち)・王塚古墳など全国でも4例しかない極めて珍しい文様だが、意味は不明



横の古墳資料館(こふんピアひろかわ)にある石室のレプリカ





柵の形が靫



周囲を回る



古墳開口部の裏側に階段が設けてある。登ると

周囲を見渡せる。

山の見える方が久留米・奥八女・みやま、山が無い方角が有明海側。



資料館内部の石室レプリカの横にある説明板

弘化谷古墳(こうかだにこふん)の壁画(へきが)

みなさんの前にあるものは、公園内にその姿を復元している「弘化谷古墳」の石室のなかに造られた石屋形(いしやかた)と、その内壁に描かれている装飾壁画のレプリカ(実物そっくりに作った模型)です。

この「石の家」のような石屋形の中に、地域の有力者が死んだ後、横に寝かされ、永遠の眠りについたのです。

わたしたちは、紙によく絵を描きます。弘化谷古墳では、亡くなった有力者の魂(たましい)が安らかにしずまることと、死者に悪霊(あくりょう)などがちかよらないことを願って、古代の絵がうまい人が、平たい石に赤や緑の色を塗り、靫(ゆき)(矢づつ)・同心円文(どうしんえんもん)・双脚輪状文(そうきゃくりんじょうもん)・三角文(さんかくもん)などの文様を描いたのです。この壁画には、「まじない」的な意味もあったと思われます。



双脚輪状文のはなし

石屋形の中を見てみましょう。壁画の真ん中の左よりに、円文から「たこ」の足のようなものが、2本のびている文様が2個並んでいるのがわかると思います。

そうです! この文様が双脚輪状文(そうきゃくりんじょうもん)です。この文様は、日本でも九州の福岡県と熊本県の四つの古墳で発見されているだけです。

どうですか? 不思議な形ですね。何をもとにして描かれたのでしょうか。「さしば」と呼ばれる大きな団扇(うちわ)がもとになっているともいわれますが、まだよくわかっていません。

しかし、弘化谷古墳に永遠に眠る人の生きていたころの実力を示すと共に、魔よけの意味が込められていたことは確かです。



子どもに双脚輪状文の特殊性を教える意気込み。



双脚輪状文の見つかっている古墳は四つ。

  • 王塚古墳 (おうづかこふん)

    • 福岡県嘉穂郡桂川町寿命 (かほぐん・けいせんまち・じゅめい)
    • 6世紀中ごろ
    • 5つの色彩で彩られた壁画が石室内ほぼ全面に施されている。
    • 未盗掘で、豪華な副葬品が出土
  • 釜尾古墳 (かまおこふん)

    • 熊本県熊本市北区釜尾町
    • 6世紀後半
    • 赤、青(灰)、白の三色で鋸歯文・同心円文・三角文・双脚輪状文
    • 須恵器、管玉、鉄製品(剣・刀・桂甲・馬具)が出土
  • 横山古墳

    • 熊本県山鹿市鹿央町岩原(やまがし・かおうまち)
      • 鹿本(かもと)郡植木町大字有泉字横山にあった古墳を移築
    • 6世紀後半
    • 赤、青、白の三角文・同心円文・双脚輪状文
    • 須恵器、鉄製品、装身具(玉類)等、数百点以上が出土



他の3つの古墳で豪華な副葬品が出土しているので、弘化谷古墳も豪華な副葬品があったに違いない。

弘化谷古墳の被葬者について、6世紀中ごろの古墳なので筑紫君磐井の子(葛子ら)と同時代頃ですが、岩戸山古墳から少し離れている為、筑紫君の政権を支えた有力者のものと考えられているようです。

装飾古墳はその特殊性からインパクトが強すぎて、分布が分かりやすい。畿内王権一辺倒の見方では説明できないでしょう。出雲や関東東北まで拡がっている。
装飾古墳文化縄文文化リバイバルっぽくもあり、騎馬民族的な描画も豊富で物部氏蘇我氏の台頭を示すようでもある。それらの関係性から生まれたものではなかろうか。特に熊本は百済との結び付きが強いようで、同じ肥国・肥前風土記等には、百済の王族が火君を頼って渡来した事などが記録にある。



物部は弥生時代か古墳前期の人物と思ぼしきニギハヤヒウマシマジ夏花を「祖」としてあるが、部民制は騎馬民族の政治システムだろう、本物の物部が出てくるのはもっとずっと後のこと。

日本書紀』の欽明紀では、物部は百済にもあり、内臣は百済新羅にもいるように読める。このへんは日本の中だけで見てもよく分からないんじゃないかと思う。また、外交交易の玄関口かつ国防最前線である九州を無視して、記紀ガラパゴス鎖国史観で見ようとしたって全然理解出来ない。ナショナリズムに引っ掛かりそうな微妙なラインで扱い難い問題か。