福岡県八女郡広川町一条にある 石人山古墳(せきじんさん) と 弘化谷古墳(こうかだに) を見てきました 。八女古墳群の一部で国指定史跡。2つの古墳は隣り合ってあります。
本投稿は石人山古墳編。
場所
八女古墳群は約300基からなり、およそ筑後川河口の三潴(久留米)の方から古いようで、広川沿いをさかのぼるにつれて新しくなる。終末期は矢部川沿いの童男山古墳群かな?茶畑が広がる低丘陵に作られている。
☝️◆ 場所名 : 石人山古墳 / 八女郡広川町
形状 : 前方後円墳
年代 : 5世紀前半
緯度, 経度 : 33.237339 130.517316
☝️◆ 場所名 : 弘化谷古墳 / 八女郡広川町
形状 : 円墳 (八女古墳群最大)
年代 : 6世紀後半
緯度, 経度 : 33.236612 130.51979
☝️◆ 場所名 : 御塚・権現塚古墳 / 久留米市大善寺町(三潴)
形状 :
権現塚古墳 / 円墳 (九州第2位の規模)
年代 : 5世紀後半~6世紀前半
緯度, 経度 : 33.279169 130.477102
☝️◆ 場所名 : 岩戸山古墳 / 八女市吉田
前方後円墳 (北部九州最大)
年代 : 6世紀前半
緯度, 経度 : 33.229867 130.552717
石人山古墳
- 場所 : 福岡県八女郡広川町大字一条字人形原
- 年代 : 5世紀前半
- 形状 : 前方後円墳
- 大きさ :
- 全長120m
- 前方部の幅約63m
- 後円部高さ12m
- 直径53m
- 幅約1.5mの周濠
- 北側のくびれ部分に造出
- 石棺
- 後円部に緑泥片岩の平石積み横穴式石室(江戸期以降に崩壊)
- 阿蘇溶結凝灰岩製
- 高さ:1.4m / 長さ:2.3m
- 石棺のフタに直弧文と重圏文が浮き彫りに彫刻された豪華な横口式組合式家型石棺
- 丹彩
- 出土品 : 盗掘されているようです。
- その他
かつては石人山古墳が筑紫君磐井の墓だと考えられていたようですが、現在はその100年ほど前に作られた古墳であることから、磐井の3代ほど前の人物が被葬者と考えられている。
石棺の蓋に精巧な直弧文などの彫刻が施されており、全国的に知名度が高い古墳。
装飾古墳で直弧文の入ったものは、似た物では
- 熊本県宇土半島の宇城市不知火町大字長崎字坊の平にある鴨籠古墳の石棺の蓋
- 熊本県上益城郡嘉島町の井寺古墳の石障
- 熊本県上天草市大矢野町の長砂連(ながされ)古墳の石障
- 福岡県久留米市の成田山にある浦山古墳の石棺内の壁面
- 岡山県岡山市北区新庄下の千足古墳の石障
など。
アクセス等
九州自動車道の広川インターから5分。八女インターから10分。
駐車場やトイレは、石人山古墳・弘化谷古墳の横にある資料館「広川町古墳公園資料館(こふんピアひろかわ)」へ。
武装石人のレプリカの後ろ姿
正面から
夏目漱石の小説に高級絣として登場する久留米絣製マスクをしています( )
久留米藩の矢野一貞(1794~1879年)という学者が著した『筑後将士軍談』に石人のスケッチが載っているようで、このレプリカの石人はそのスケッチに基づいて再現されているのかな。
本物が古墳の上にあるが、ここまで鮮やかな装飾は残っていない。
古墳資料館の裏に石棺のレプリカと、弥生時代?の石棺のレプリカ?がある。
丸い円文がついていますが、いくつかの資料を見ると、円の中に漢字が書かれてあるように見える。
九州の弥生遺跡から硯が見つかっているし、文字を知らなければ倭の五王の上表文など書けない。
前後左右の板は組み立て式
横に古いタイプの石棺。これが何か訊きそびれた。
古墳を背景にしてその北側に立っている。くびれ部分の少し前方側。
右手が後円部、左手が前方部。
写真の真ん中が、くびれ部分の辺り。造り出しがあるのでくびれておらず、高くなっている。
前方部北西側
周濠があったようですが段々畑
前方部からくびれ方向
前方部へ回り込んだ。通路が設けてある
階段になっている。登ると前方部
振り向いて
階段を登ると
奥に石人を囲う小屋が見える。
振りかえって
階段頂横に説明板
石人山古墳(せきじんさんこふん)
昭和53年3月24日
国指定史跡 八女古墳群として一括指定
この古墳は、岩戸山古墳(いわとやまこふん)(八女市)・石神山古墳(せきじんさんこふん)(みやま市)と共に、石人を有することによって全国的によく知られています。
古記録に「貞享元年(1684)3月、一条村の南岡に石人を立つ云々」とあるように、石人そのものが神と認識され祭祀(さいし)の対象ともなります。
古墳の形は「造り出し(つくりだし)」と称する平坦部を持つ前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)で、前方部は二段に、後円部は三段に丘陵上に西面(せいめん)して築造(ちくぞう)され、周濠(しゅうごう)を有します。
出土した須恵器片(すえきへん)や埴輪(はにわ)などの年代から推考し五世紀前葉(ぜんよう)と考えられています。
主体部(しゅたいぶ)は、横2メートル・奥行4メートルの石室に、阿蘇溶結凝灰岩(あそようけつぎょうかいがん)で作った、横口式家型石棺(よこぐちしきいえがたせきかん)が納められています。棺蓋(かんぶた)は寄せ棟(よせむね)型の屋根で、登頂部の長さは1.9メートル・底部の長さは2.8メートルを測ります。
屋根の表面には重圏文(じゅうけんもん)・直弧文(ちょっこもん)・三角文(さんかくもん)など精緻(せいち)な彫刻が施されています。
棺身(かんしん)は4枚の板石を組み合わせて壁とし、高さは1.4メートル・長さは2.3メートルを測ります。
また墳丘のくびれ部には、古墳名の由来となった石人が立ち、短甲(たんこう)を着(ちゃく)し武装しており像高1.9メートルを測ります。昭和51年6月5日、国の重要文化財に指定されました。
規模
- 全長 120.0m
- 前方部
- 高さ 11.3m
- 正面幅 63.6m
- 後円部
- 高さ 12.0m
- 径 53.0m
- 周濠幅 1.5m
平成3年1月
広川町教育委員会
通路を進むと突き当たりに
中には
あちこち削れて傷んでおります。自分の体の悪い部分と同じ箇所を削って飲めば治るという言い伝えがあったらしく、それで削れまくっているらしい。
この石人にも朱が塗られていたようです。腰の辺りに若干残っている。赤っぽい。
「倭人は中国で白粉を塗るように朱を塗る。」
赤鬼とは倭人のこと。赤鬼を退治する者は倭人ではない。
むかしはこうした石人がたくさんあったらしいが、田中某が城作りの石材として使った為に減ったという話がある。朝倉市の杷木神籠石があまり残っていないのもそんな理由。
石造を作る文化はスキタイや匈奴、眈羅鮮卑(済州島)を経て九州に入ってきたのだろう。現存する石人の最古は大分県臼杵の臼杵古墳(臼杵神社)のもの。
石人向かって右側にある説明板
史跡 石人山古墳
この岡は東西7KMもあり、古くから人形原と呼ばれ
幕末の矢野一貞は、この台地の大古墳群を筑紫国造家
の墓所であると云つている。この古墳群の西端にあつ
て最も古い様式をもつのが本古墳である。5世紀後半
の築造とみられる前方後円の墳丘は古式を示し、長さ
110M幅後円部で60M前方部で45Mあり、大形と云える
。中央に立つ石人はこの古墳の名の起こりを示す。
前方部に向かつて開く狭い石室は、いまはほとんど失はれ
ているが、それにおさめられた横口式家型石棺は円文
直弧文などで飾られ、石人とともに九州の地方色を強
く示している。
文化財保護委員会
石人の小屋を右側から裏へ回ると石棺がある
裏から見た石人
公衆トイレで用をたしている男性
黒の遮光カーテンが掛けられている。
江戸時代の矢野一貞『筑後将士軍談』のスケッチ画では、石棺の周りは石室に覆われ、石棺は横口のある面だけが見えている状態だった。
史跡 石人山古墳
昭和13年8月8日
文化財保護法により重要文化財に指定
この古墳の構造は、長峰丘陵を利用して築造した前方後円墳であります。○○は二段に築かれ全体の長さ約110メートル、後円部の径は約53メートル、前方部の幅約63メートルあり周囲に空濠の跡が残っています。後円部の前面には武装石人が立ち、貞享元年(1684年)小堂を建てこれを○覆しています。
江戸時代既に後円部の中央地下2メートルに石棺の前面は露出して副葬品については明らかではありません。 昭和十○年○月25日、県の調査によって石棺上の覆土を除○石棺及び?石槨の内部を部分的に発掘し、その結果重圏紋と直○紋が彫刻された見事な石棺の○が初めて発見され久留米市浦山古墳と並び称されるものです。
これが保存のため、昭和13年5月覆屋?を設け昭和29年3月補修、昭和○十9?年3月改築しました。
広川町教育委員会
所々読めない。
柵の中にスマホを突っ込んで
石室は調査の為に壊したか。周りはレンガのようなもので作ってある。元々は緑泥片岩の平石を積んであったようです。
石棺の蓋に直弧文が彫刻されているのが見える。レプリカではなく本物。これだけ立派な石棺はそうそう無い。そのわりに扱いや保存が雑。熊本の江田船山古墳の石棺も横口式家型石棺だがガラス張りのケースで囲ってある。
石人山古墳の石人や石棺の石材は、資料館の方が言うには、熊本県の玉名の辺りから運ばれた物だそうで、被葬者も熊本の出身者ではないかと考えられていると。
一方、岩戸山古墳の石材は地元八女の物と。
石材から出身地を特定するのは歴史学では通常の考えなのか知りませんが、もしそうであるなら大阪府高槻市の今城塚古墳の被葬者も熊本出身者ということなのか。話しが色々違ってくる。
阿蘇の石を使った石棺は畿内にもたくさんある。
石人山古墳は以上です。
円文に漢字が(ry