chayarokurokuroの雑記ブログ

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「御塚・権現塚古墳」福岡県久留米市大善寺

福岡県久留米市大善寺町宮本(旧・三潴郡)の御塚・権現塚古墳(おんつか・ごんげんづか)を見てきました。
大善寺玉垂宮 から移動しました。県道23号久留米柳川線を北へ400m。大きいので直ぐわかります。



場所

  • 赤 / 大善寺玉垂宮
  • 黄緑 / 御塚・権現塚古墳
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左(南)が「御塚古墳」、右(北)が「権現塚古墳」
写真上方向は西。



2つの古墳が隣り合っているので、まとめて「御塚・権現塚古墳」と呼ばれているようです。
両方とも円墳に見えますが、左側の 「御塚古墳」 は帆立貝式前方後円墳だったとか。道路敷設で前方部は破壊。

2~3キロほど西に筑後川が流れる。
下の道路は福岡県道23号線で、右下方面が久留米、左が柳川方面。



かつて大善寺付近では古墳が40基ほどあったようですが、現在はあまり残っていない。御塚・権現塚古墳はその中心的なものだという。



築造時期は約5世紀後半~6世紀前半、左側(南側)の 御塚古墳 の方が古い。
被葬者は 三沼君の一族 と考えられている。



大善寺玉垂宮から県道23号線を400m、左側に休憩所が見えた。

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f:id:chayarokurokuro:20220310204308j:plain 道路右側には西鉄電車天神大牟田線が平行して走っている。電車でのアクセスなら、大善寺駅から徒歩。



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休憩所ベンチの横に説明板



史跡 御塚(おんつか)・権現塚(ごんげんつか)古墳

久留米市大善寺町宮本
昭和六年 十月二十一日 国指定

南に位置する三重の周濠をもつ 帆立貝式(ほたてがいしき)前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)御塚古墳、北側の二重の周濠をもつ円墳が権現塚古墳です。

となりあって築かれたこの二基の古墳は、江戸時代より書物などに記述の見られる九州を代表する古墳の一つです。

現在ではほとんど消滅していますが、周囲には「イロハ塚」と呼ばれる古墳群があり、この地区が古墳時代より当地区の中心的な場所の一つであったことがわかります。

二基の古墳は共に100mを越える大古墳ですが、内部主体は未調査のため不明です。

しかし、環境整備の事前の発掘調査によって埴輪(はにわ)や須恵器(すえき)などの遺物が多数出土しています。築造の時代は、こららの資料から五世紀後半~六世紀前半代と考えられ、御塚古墳が先に築かれたようです。

これらの古墳の被葬者(ひそうしゃ)は、『日本書紀』に名の見える当地方の豪族である、『三沼君(みぬまのきみ)』の一族と考えられています。

出土した須恵器の中に朝鮮半島で焼かれた新羅系(しらぎけい)のものがあることや、三沼君の記録には中国との関係を示す記述があること、さらに古墳の立地などから、これらの古墳は有明海(ありあけかい)を舞台(ぶたい)として大陸との交渉があったことを示しています。

南東9kmには「磐井の乱(いわいのらん)」(527年)で有名な、北部九州に大きな勢力をほこった『筑紫君(つくしのきみ)』一族の墳墓である『八女古墳群(やめこふんぐん)』があり、それらの勢力との関係を考えるうえでも興味ある古墳です。

久留米市教育委員会



安易に「ヤマト王権との関係が云々」などと 寝ぼけた事を 書いていない。地元の意地やプライドの高さをうかがえる。



駐車場とトイレは少し先にあります。



御塚古墳

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結構気合いの入った周濠。



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史跡 御塚古墳

昭和6年 10月21日 国指定

三重の周濠(しゅうごう)・周堤(しゅうてい)をめぐらせる御塚古墳は、前方部が短い、帆立貝式前方後円墳(ほたてがいしき・ぜんぽうこうえんふん)です。全長は120mをこえ、前方部は柳川県道にかかり墓域(ぼいき)はさらに西鉄電車敷きの南までのびています。

江戸時代終りの有名な久留米藩の学者である 矢野一貞(やのかずさだ) が著した 『筑後将士軍談(ちくごしょう しぐんだん)』 には、この古墳の古名である「鬼塚(おにつか)」の名前が見えます。当時、内部主体はすでに盗掘されていましたが、石人らしきものも見られたようです。石人・石馬(せきじん・せきば) などをもつ 岩戸山古墳(いわとやまこふん) に代表される八女古墳群との関係がしのばれます。



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昭和47, 61年度の発掘調査では、三重の周濠の深さが一致していること、周堤(しゅうてい) を結ぶ 陸橋部(りっきょうぶ) が数ヶ所(調査では3ヶ所)あることなどがわかっており、この古墳がかなりの計画性をもって造られていることが考えられます。

調査では多くの円筒埴輪(えんとうはにわ) や 形象埴輪(けいしょうはにわ) 、須恵器(すえき)・土師器(はじき)が出土していますが、須恵器の中には隣接する権現塚古墳と類似の朝鮮半島で焼かれたと考えられる新羅系のものがあり注目されます。

この古墳は、『日本書紀』に名の見えるこの地方の古代豪族である『三沼君』一族の墓と考えられ、5世紀後半代に権現塚古墳より先に造られたようです。

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となりの権現塚古墳へ

権現塚古墳

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史跡 権現塚古墳

昭和6年 10月21日 国指定

水を湛えた(たたえた)二重の周濠をめぐらせる権現塚は当地方を代表する古墳の一つです。

墓域を示すと思われる外側の浅い溝を含むと直径は150m をこえ、宮崎県にある 西都原古墳群(さいとばる こふんぐん) の男狭穂塚古墳(おさほ)(径 167m) に次ぐ九州第二位の大円墳となり、主墳丘(しゅふんきゅう)の径は55m高さ8m の規模をもっています。

江戸時代終りの有名な久留米藩の学者である 矢野一貞(やのかずさだ) が著した 『筑後将士軍談(ちくごしょう しぐんだん)』 にも、詳しい記述が見られます。



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内部主体は未調査で不明ですが、昭和47, 61年度の発掘調査によって内堤(ないてい)(第一堤) には円筒埴輪が並んでいることが確認されています。その他形象埴輪・須恵器・土師器などが出土しています。

なかでも大正6年の古墳修理の際出土した武人埴輪の頭部と顔面のみの人物埴輪は市指定文化財になっています。

須恵器の中には、朝鮮半島で焼かれたと考えられる新羅系のものが含まれているのも注目されます。

隣接する御塚古墳と同様に、『日本書紀』に名の見えるこの地方の古代豪族である『三沼君』一族の墓と考えられています。
古墳は5世紀末~6世紀前半に造られたまのでしょう。



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武装木人が守っている。



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権現塚古墳の前に駐車場とトイレがあります。

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写真は以上。



  • 内部主体

    • 御塚・権現塚古墳ともに未調査
  • 築造時代

    • 推定で5世紀後半~6世紀前半
    • 御塚古墳の方が古い
  • 形状

    • 御塚 : 帆立貝式前方後円墳、三重の周濠
    • 権現塚 : Φ150mを越える九州第二位の円墳。二重の周濠。
  • 出土品

    • 内部主体未調査。周濠や墳丘からの出土品ですが、円筒埴輪・形象埴輪・須恵器(新羅系)・土師器・石人など。
  • 被葬者

    • 三沼君の一族と考えられている。



説明板に円筒埴輪の写真が載っているが、5世紀後半~6世紀前半という遅い時期に九州であんなの作ってたの? 100年ほどズレてる気がする…だがそれだと石人は逆におかしいか…



筑紫の政事を行っていたと伝わる大善寺玉垂宮の側に九州を代表する大円墳がある。調査しない理由がうっすら透けて見えます。



弥生時代畿内は首長クラスの大墳丘墓がありません。技術や文化をもつ瀬戸内海沿岸の人たちの流入まで待たなければならない。また墓に剣や玉や鏡を副葬するのも九州からの人たちの流入が必要。
果たして、古墳のルーツを畿内と言えるかは疑問です。しかし畿内式と呼ぶような古墳が九州に入って来ているのは事実です。何らかの影響は認めなければならない。

いわゆる畿内式の古墳の伝播をしてヤマト王権の拡大とする場合(松木武彦説など)に問題となるのは、九州式の横穴式石室が九州から全国的に拡がっていたり、阿蘇の石材が各地で使われていたり、装飾古墳が拡がっていたりする事実を「ヤマト王権の拡大」と同じ理屈を当てはめると「九州王権の拡大」と言えてしまうこと。



さらに前方後円墳の数は、奈良県大阪府共に全国5位にも入っておらず、古墳自体の数も同様に5位以内に入っていない。畿内は古墳の中心から外れているわけです。
もっと言うと、甲冑や馬具の出土量も畿内が飛び抜けているでもなく、どちらかと言えば九州て関東に挟まれた感じ。抑え込まれている。ヤマト王権中心の見方では不可解かと思う。