chayarokurokuroの雑記ブログ

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福岡県みやま市高田「宝満神社」

福岡県みやま市高田町北新開270(しんがい)の 宝満神社 へ詣って来ました。 矢部川の河口近くです。
現在は住所が みやま市 に変わっていますが、少し前までは 邪馬台国九州説でお馴染みの 山門郡 です。
古代山城で銅剣などが出土した弥生遺跡や山内古墳群のある女山(ぞやま)や、『日本書紀』に登場する田油津姫(たぶらつひめ)の墓とも言われる蜘蛛塚(女王塚)のある地区より南に位置し、大牟田市に近いが中心地との中間地点。JR渡瀬駅、高田濃施山公園のそば。石人と立派な石棺3基の出土した下楠田の「石神山古墳」にも近い。

ちょっと脱線。
まだブログに書いていませんが「石神山古墳」は去年かおとどしに行きました。今まで訪れた古墳の中でも最高レベルで興奮した。広川の「石人山古墳」より少し古い。
石神山古墳 → 石人山古墳 → 岩戸山古墳 の順に造られてる。

宝満神社の住所は「新開(しんがい)」ですけど、「アラカイ」とも読めますね。磐井の乱は、八女の岩戸山古墳と山門の石神山古墳の被葬者親族の覇権争い・内部抗争だったりして。脱線おわり。



由緒

  • 現社名: 宝満神社
  • 祭神 : 玉依姫命 天兒屋根命 筒男三神
  • 例祭: 10月16日 例祭
  • 境内社: 若宮神社・社日神社・鈿女神社・猿田大神


神社自体は、古代に筑前竈門宝満神社から勧請して存在してはいたらしいが一時廃れていたようです。それを柳川藩主の立花宗茂が戦国末期に再興したようである。
太宰府の竈門神社は元宮が筑紫野市山家にあるそうで、663年の白村江のちょい前に太宰府の鬼門として宝満山に勧請した説があるようだ。
ということで、「古代」がいつかによって勧請元が変わる。わからんので無視しよ。



毎年10月17日の祭礼で、宝満神社奉納能楽(新開能)が昼から夜中まで奉納される。福岡県の無形民俗文化財
能は武家がやるものでしょうが、農民が能を奉納するという形で全国的に貴重な伝統芸能を伝承する神社。時代劇で信長が「人間50年~」とやる幸若舞という能があります。全国的に廃れてしまってあまり残っていないようですが、みやま市には幸若舞を唯一伝承している神社もある。瀬高町大江の大江天満神社みやま市は文化レベルが高いね。
柳川藩立花家はなぜ柳川ではなく山門にこのような物を残したんでしょうかね。

新開能の由来

由緒

元禄元年(1592)朝鮮の役に際し時の柳川藩立花宗茂公は、この宝満宮に、武運を祈願し出兵する。三年後無事帰国しお礼の銘刀を奉納する。その後、享保元年(1716)4代藩主鑑任公が祈願成就のため宝満宮に「能楽」を奉納する。これが現在の「新開能」の始まりと言われている。当時は藩のお抱え能楽師であった大善寺の美麗田楽師梅津家が勤め寺社奉行が執行していた。当時から氏子たちは諸道具の運搬手伝いをしており、やがてツレ、ワキ等も勤めることが可能になり能がこの土地に定着していく。明治以降は氏子の自主運営によって毎年10月17日に奉納され現在にいたっている。流派は喜多流に属しており「農民能」として全国的に貴重な芸能である。現在使用している面、衣裳、小道具類は昭和になり、立花家より譲り受けたもので、一部は2代藩主忠茂公夫人が仙台伊達家から輿入れされたとき、持参されたものと言われている。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



實満神社奉納能楽

県指定無形民俗文化財 實満神社奉納能楽 指定昭和51年4月24日 所在 賓満神社(みやま市高田町北新開270) 文禄元(1592)年3月26日、文禄の役に際し、柳川城立花宗茂公は、将兵2500人とともに柳川を出立、この賓満神社に無事を祈願し、出兵しました。その後、無事に帰国した宗茂公は、お礼に銘刀を奉納しています。 賓満神社に猿楽能が奉納された史料上の初見は、寛永17(1640)年11月9日に、藩のお抱え能楽師美麗(久留米の大善寺玉垂宮に神事能を奉納)が能を当社の神前に奉納し、それ以後、毎年の奉納能が定例化した(「南筑明覧」)という記述です。 享保元(1716)年までは美麗が能を奉納し、氏子たちは、能衣裳や小道具運びを手伝い、野舞台の設営などをしていましたが、やがてワキ・ツレなどを地元の人たちで演じることができるようになり、「新開能」がこの土地に定着しました。 明治以降、氏子の自主運営によって毎年10月17日に能と狂言が奉納され、現在に至つています。 揺曲の流派は喜多流で、「農民能」として全国的に貴重な伝統民俗芸能です。 現在使用している能面や能衣裳・小道具類は,昭和になり、立花家から譲り受けたもので、一部は二代藩主忠茂公夫人貞照姫が仙台伊達家から輿入れされたとき持参された豪華な能楽道具と言われています。 平成22年10月17日 みやま市教育委員会

社頭掲示



久留米の大善寺に居住してきた田楽師の梅津家は鎌倉時代以降筑後地域の神社に奉納してきたそうだ。こちらの宝満神社で伝承する「新開能」は明治以降に氏子が自主的に奉納する形になった。美麗田楽師梅津家の「美麗」とは源頼朝より称を許されて付けられたものだと。梅津さんとか梅野さんとか梅崎さんとか、梅がつく苗字が多い。



写真をうp。



周りはこんな感じ↓



能に古代のヒントは隠されているだろうか?



灯籠に豊前大友家の杏葉紋(ぎょうようもん)と、立花家の祇園守紋(ぎおんまもりもん、または柳川守紋・立花守紋)





神社の周囲をこのような溝が囲っている



袴着には木瓜紋。中に桜っぽい紋。高良大社の四つ木瓜ではなく織田木瓜紋のように五つなのはなんでだぜ?



門の左に見える小屋が能を奉納する舞台のようだ。





写真多くてだいぶ重いかもスマソ。
近くに石人のある古墳(石神山古墳)があるので結構重要な土地だったと思う。しかも矢部川の河口のそばだ。住所の「濃施(のせ)」って何だろう? 布施とか巨勢とかの仲間? 「濃(のう)」で「能」か?濃姫とかのルーツ? 大阪の淀川は佐賀の與止日女神社と関係あるようだけど…

参考サイトとして見た ⛩宝満神社|福岡県みやま市 - 八百万の神宝満神社には、何の理由かわからないが、豊比咩神社の名前が記載されている。みやま市三井郡じゃないし何故記載してある?
延喜式神名帳』の筑後国三井郡名神大社「豊比咩神社」があります。豊比咩が豊玉姫なら『記紀』的に玉依姫と姉妹なので無関係ではないだろうけど。