佐賀県武雄市橘町永島の潮見(しおみ)神社へ行って来ました。
こちらも前回の正一位神社と同様、橘氏ゆかりの神社です。カッパの由来もあり。
場所
脇を六角川が流れております。正一位神社の下流に位置します。
六角川は北に向かい、それから東へ北方、大町、江北、小城と流れて有明海に注ぐ。
神社の名前に潮見とあるように、かつては回りは海だったそうです。下宮中宮から山を登ると上宮があるのですが、そこから潮の様子を見ていた。
土俵
社務所兼宮司の毛利さんの自宅のようです。36代目(だったかな?)とおっしゃっていた。とても気さくにお声を掛けて下さり、こちらの質問にもにこやかにお応え下さり長々とお話いたしました。
カッパの集団がいるぞ!
橘諸兄公の孫、兵部大輔(ひょうぶたいふ)島田丸は、春日大社を常盤の鹿島からいまの三笠山に移す時、匠工の奉行を務めました。内匠工が99人の人形をつくり秘法で命を与えたところ、童の形となって神力をあらわし、たちまち工事を落成させてしまいました。工事が終わって不要になった人形を川に捨てたのが「カッパ」となって人畜に害を与えるようになりました。そこで島田丸が災いを鎮めたので、このカッパのことを兵主部(ひょうすべ)と呼ぶようになったと言われています。
何やら顔の引き吊りそうなことが伝えられている。徴用工的な…
潮見神社の宮司・毛利家には水難除け・河童除けのための呪文が語り継がれています。
「兵主部よ 約束せしは忘れるなよ 川立つをのこ 跡はすがわら」
(河童たちよ、約束を忘れてはいないな。水泳の上手な男は菅原道真公の子孫であるぞ)
菅原道真が唐突に現れる。唐が滅びる寸前の最後の遣唐使を出したのが太宰帥の菅原道真だったかしら。西暦900年頃のこと。
春日大社について | 春日大社によれば、奈良の春日大社は神護景雲2年(768)に造営とある。菅原道真より150年ほど古い時代。呪文を直接当時の兵主部に掛けたなら、もっと後の時代になる。
御笠も春日の地名もある福岡のことか?
福岡の春日神社のページには
春日神社は、後の天智天皇となる中大兄皇子(626年~672年)が長津の宮(現在の高宮)に居られる時、春日の地に天児屋根命(アメノコヤネノミコト)を祀られたことに由来する。
春日神社について | 【公式】福岡 春日神社。春日の婿押し祭りや地鎮祭などの神事のご案内。より
高宮とは福岡市南区高宮か。
つづけて、
時は神護景雲二年(768年)。太宰大弐であった藤原田麿は、春日の地に藤原家の祖神である天児屋根命が祀られていることを知る。そこで参拝した後、故郷である大和の国(現在の奈良)の春日大社から、雷の神・剣の神といわれる武甕槌命(タケミカヅチノミコト)、その武甕槌命と関係が深いといわれる経津主命(フツヌシノミコト)、姫大神(ヒメオオカミ)を迎え、神社を創建することとなる。
天智天皇の頃にはすでに福岡市南区高宮に祀ってあったのに、768年にわざわざ奈良から勧請したのだと。何か誤魔化してるな。まぁいい。
春日大社は脇に置いてと。
潮見神社の祭神と由緒を確認しておこう。
御祭神
上宮
下宮
由緒
神代の昔、このあたり一帯が島見郷と称される小島でありました頃、イザナギ・イザナミ二柱の大神を奉祀申し上げる島見社が鎮座されました。これが当社の起源です。
島見郷は有明海に面し、潮の流れを知る要地でありました。いつの頃からか、この地を潮見郷、また、神社も潮見社と称するようになりました。 鎌倉時代の嘉禎三年(1237)、長島荘の地頭として潮見城の初代藩主となられた橘公業公は、橘氏の祖・橘諸兄公を上宮に、その御子・橘奈良麿公を下宮に奉祀し、当社を橘氏一族の氏神社として信仰されました。
橘諸兄公は、敏達天皇五世の孫で「葛城王」と称し、臣籍に下り元明天皇より橘の姓を賜りました。また、橘奈良麿公は、藤原仲麿(恵美押勝)の所業に国を憂い、彼の横暴を拝さんとなさいましたが計画が漏れ、天平宝字元年(757)西国のこの地へ配流されました。
後に公業公を中宮に、またその御孫・渋江公村公、中村公光公、牛島公茂公を下宮に奉祀申し上げております。
ここでは歴史学の通説とは異なり、橘奈良麿は処刑されずに佐賀武雄に流れてきたと伝えている。
藤原仲麿(恵美押勝)が呼び捨て。橘奈良麿はちゃんと「公」をつけてある。
潮見城初代藩主で中宮に祀られる橘公業公について
橘公業 - Wikipedia
源平時代~元寇の前の頃のひと。
写真を上げます。
参道を来ると正面に↑の鳥居がある。この左手に社務所兼宮司宅。右手に下宮中宮。
さらに道路を真っ直ぐ登って行くと潮見古墳や上宮に行く。
潮見古墳の説明書。
ざっと書くと
6世紀中頃の古墳で直径25m、高さ5mの円墳。南に開口する横穴式石室で全長11m。
玄室は奥行き3.4m、幅2.5m、高さ2.7m。敷石床で、奥壁に平行して屍床が設けられ、側壁は腰石に巨石を使い、その上に魂石を持ち送り手法で積んである。
屍床全面の両側と玄室の南東隅の三ヶ所に柱状の立石が配されます。
二回の調査で冠など装飾品、装身具や馬具・武器・工具等の豊富な副葬品が出土。
武雄地方の有力者の墓と推定されます。
神社に古墳が併設されているため、神道の穢れのような発想はここにはなかったのではないかと宮司さんが仰る。神社と古墳がセットになっている場所は他にもあると。
由緒
拝殿
見えにくいですが、瓦に橘紋が入っている。
本殿は離れてる
神社を背にして右手
登って行くと潮見古墳や上宮
左手は入ってきた参道
ということで、歩いて登る。
そのまま道路を登る
石碑がある。「山口なんとかかんとか」
古墳を目指す。
道路を途中で右手に入る。
案内に従い分岐点を右に曲がる
後ろを振り返って
ここに来たらもうすぐ
夏頃に行ったんですが藪蚊が多くてタマランので早々に撤退
一旦下の神社に戻る。古墳まで片道5分ほど。
下の神社に停めていたバイクで上宮まで道路を登っての、
ほほう、ここから潮見していたのだな。
よい眺め。
いいね、ここ。
お勤めご苦労様です
社殿の右側に回り込み、本殿との通路を覗き込む
本殿にも厳重な護衛がいますよ
変わったヘアスタイル
上宮は下宮中宮から徒歩で10分くらい。駐車スペースがなく、坂が急なこともあり車では行けないです。
橘奈良麿の件と、カッパのルーツが垣間見れたことは収穫だった。声高に言えない感じだが…
橘諸兄は井手左大臣の呼び名があります。塩田川の河口に井手という地名がある。その北には4世紀頃の龍王崎古墳群がある。何か関係がありそう。