さて久しぶりに書きまそ。筆不精でござる。
邪馬台国の所在地論争に、福岡県田川説や、大分県宇佐説などがあります。これらは違うんしゃないかと思う理由を書きます。
田川説は、元高校社会科教師で在野の歴史研究家の福永晋三氏が唱えています。氏は40代頃から九州王朝説の古田武彦氏の研究会に入っていたらしいのですが、その説は、九州倭国が東(倭国東朝)と西(倭国本朝)に別れていた、とする説が中心のようです。
彼の説は、これまた在野の歴史研究家で『豊前王朝』という本を出されている故・大芝英雄氏の説を踏襲しているのだろうと思う。私も大芝氏の本を読んで、大筋で賛成しております。『隋書』を大芝説で読むと色々しっくり来る。
『隋書』は「筑紫の東に秦王国がある」と書いています。この国を大芝説は「豊前王朝」と呼び、福永晋三説では「倭国東朝」と呼んでいる。
秦王国が「本朝」ではないところがミソだ。倭国の都は当然本朝側にあるだろう。しかし田川は東朝側だ。この矛盾を福永説はどう解釈しているのか?
実は彼の書籍をまだ読んでおりません。福永説についてはまたいつか取り上げよう。
宇佐説については、誰か有名な歴史研究家でもいるのか全然知りませんが、YouTubeで武田晴樹さん(アマチュア古代史家)のチャンネルがこの説のようです。チャンネル自体は結構面白い。
で、タイトルの本筋。
なぜ田川や宇佐は邪馬台国ではないと思うか。
『隋書』には
- 邪靡堆は倭国の都である
- 邪靡堆は『魏書』の言う「邪馬台(邪馬臺)」である
- その地勢は東高西低である
と書いている。Wikipediaの邪馬台国畿内説にもそこに触れている。奈良纏向は東に山がある。(※畿内説論者は方向音痴であることに注意)
田川や宇佐は東高西低だろうか?遠賀川が西に流れているので田川はあてはまってはいるが、どちらかと言うと山に囲まれた土地ではありませんか? 田川に初めて訪れた人が「東高西低の地勢だ」と感じる場所ではないと思う(一度しか行ったことないけど)
宇佐に関しては、もう全く、東も北も海です。しかも不彌国(宇美説)より北ですし。宇佐は違うだろう。
同様に、宮崎説も違う。徳島説(阿波)も違う。福井も違う。
これらの説を採るなら『隋書』との矛盾についてもっと説明が必要。