chayarokurokuroの雑記ブログ

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吉野ヶ里遺跡の謎エリア、石棺から人骨・副葬品は見つからず

佐賀県吉野ヶ里遺跡内で未発掘であった日吉神社周辺の「謎エリア」から見つかった、邪馬台国時代と思われる石棺の内部発掘調査がひとまず終了した模様。





残念ながら、人骨も副葬品も見つからなかったようです。やっぱ18世紀に日吉神社を建てた際、盗掘したかなw
石棺の深さは、当初予想されていた30~35cmより更に浅く、27cmで発掘終了。かなり浅い。
卑弥呼の墓説のある有名な同時代の遺跡ですと、

  • 福岡県糸島の平原遺跡1号墳の木棺 : 長さ3.0m、幅0.7~0.9m、超絶豪華な副葬品
  • 福岡県久留米の祇園山古墳の箱式石棺 : 長さ2.0m、幅0.9m、深さ0.9m、盗掘済みで副葬品無し、周囲に66人分以上の墓


これら2つの墓に比べても小さい。やっぱ子供の墓なのかな?



石棺内部に付着していた赤色顔料については何だったかまでは特に言及されていない。「ベンガラ(鉄)」か「朱(水銀)」かは今後の化学分析で明らかにされるのだろう。当時の鉄は金より価値が高かったといい、水銀朱は発見すると国王レベルの財力が3代続く(『史記』によると)ほど大変価値が高いといいます。
小倉の城野遺跡の石棺墓内部の画像や動画を見ると凄まじく真っ赤ですけど、今回の吉野ヶ里のは分からないぐらい控えめな赤です。土砂が流れ込んで流れ落ちてるんだろうか?



謎エリアの未発掘がまだ4割ほど残っているそうで、今年9月から再開予定だとのこと。面白い発見があるといいですね。



今回の調査報道が邪馬台国と関連付けてされていることについて、
それは出土した石棺の時代推定が邪馬台国時代だからです。吉野ヶ里の全盛期はそれより200~300年前なので、邪馬台国吉野ヶ里説はないと思う。倭国大乱前の倭王がいたクニの可能性はあるかもしれない。吉野ヶ里の王を倭王帥升だと考える人もいる。

邪馬台国論争以前に、そもそも「城柵」「鉄」「矛」「絹」「楽浪土器・九州土器」もロクに出ないような纏向遺跡畿内邪馬台国の訳がないのです。関西の弥生遺跡から漢鏡が出土した例は大阪で前漢鏡の破片がたった一つだけだというし、中国史書に関西の地名や関西っぽい地理的描写は全然出てきませんし、絹が出る最も古い遺跡は天理市柳本の大和天神山古墳らしいですが4世紀ころのものというし。
記紀に登場しない卑弥呼が奈良で王をやっているなどという畿内説論者は反皇室・反神道でアカの手先に違いなく、不敬罪で独房へGoGoです。お疲れ様です。

近代的学術調査もされていない箸墓古墳卑弥呼の墓だと言ったのは四国出身の 笠井新也 - Wikipedia

で、彼は考古学者ではなく、その説は1920年代初頭に唱えた素人の与太話です。箸墓より古いというホケノ山古墳だとかは粘土槨 石囲い木槨があるので、より新しい箸墓もおそらく槨があるだろう。「墳丘の裾から玄武岩の板石が見つかっていることから竪穴式石室が作られていた可能性があり」(箸墓古墳 - Wikipedia )」といい、「卑弥呼の墓には槨はない(『魏書』)」ので箸墓説は無視で。
また卑弥呼の墓は「大作冢(大いに冢を作った)『魏書』」のであって、「作大冢(大きな冢を作った、畿内説派)」ではない。すなわち卑弥呼の墓は大々的にセレモニー的に作られたのです。卑弥呼が死んだことや埋葬場所などを倭国のクニグニの王たちは知っていた可能性。



邪馬台国の所在地が論点になる理由ですが、
後漢書』『北史』『隋書』に「邪馬台国倭国の都」だと書いてあるからです。(『魏書(魏志倭人伝)』にはない。)
『隋書』が問題。隋は7世紀の中国の統一王朝ですので、東遷説をとる場合でも7世紀以降の東遷でないと隋書と辻褄が合わない。
奈良に少なくとも3世紀から邪馬台国があったことにしないと歴代天皇畿内で王朝を率いていたという大和政権統一王朝天皇ファンタジーが成立しないので、九州説のようなものは天皇主義・神道派には都合が悪いわけです。しかし先に述べたように畿内説は記紀を無視していて反天皇・反神道なのでロジックが倒錯しているのです。アタオカなのです。お疲れ様です。



前編
佐賀県の吉野ヶ里遺跡の謎エリアから石棺が出土した件 - chayarokurokuroの雑記ブログ



追記
吉野ヶ里遺跡を調査し長年に渡って研究している「ミスター吉野ヶ里」こと考古学者の高島忠平(ちゅうへい)先生のコメント

結構ご高齢のはずですけど若々しい。情熱が若さの秘訣か。