chayarokurokuroの雑記ブログ

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佐賀県の吉野ヶ里遺跡の謎エリアから石棺が出土した件

佐賀県吉野ヶ里遺跡が紙面を賑わしている。



昨年、吉野ヶ里公園の中にある日吉神社御神体を発掘調査のため他に移すというニュースがありました。その場所は未発掘だったため「謎エリア」と呼ばれる地域。
その謎エリアから石棺が出土したニュースです。



吉野ケ里遺跡「記号の石ぶた」は石棺墓 邪馬台国時代の有力者の墓か 6月5日に県調査 | 行政・社会 | 佐賀新聞ニュース | 佐賀新聞



【動画】<吉野ケ里遺跡・石棺墓調査>出るか「新発見」熱視線再び 歴史公園来園者、歴史的発見、フィーバー期待 | 行政・社会 | 佐賀新聞ニュース | 佐賀新聞



今回の石棺の時代は邪馬台国の3世紀頃のようです。
吉野ヶ里遺跡からは3000を超える甕棺墓が発掘されていまして、王の墓だという北墳丘墓からも14基の甕棺墓と共に青銅器やガラス玉など副葬品が出土していますが、北墳丘墓は邪馬台国時代より200~300年ほど前に造られており、その後の王の墓が無い為に余所に移り住んだんじゃないかと聞いた覚えが。

現在発掘されている石棺は王の墓なんだろうか?石ぶたは長さ3.2メートル、幅1.7メートルで大きいが、石棺は長さ1.8メートル、幅が36センチしかないようです。子供用?
石ぶたの内部に線刻が施されていると。奈良の唐古・鍵遺跡と同系列のお絵描き集団か。

時代は下り、佐賀県杵島郡白石町の龍王崎古墳群は5~6世紀の古墳群ですが、線刻の装飾古墳。吉野ヶ里公園から西南に40キロほどの所。
白石町の西の嬉野市は温泉地で、丹生神社がたくさんある。今回の石棺に赤色塗料が着いていたとか。嬉野の朱なのではないか。

ついでに、『後漢書』には「自女王國東度海千餘里至拘奴國」という1文がある。狗奴国は熊本あたりだとする説は以前からよく言われる。その西の海を1000里ほど渡ると女王国(邪馬臺国)で倭国の都だと書いている。熊本の西の有明海を渡ると島原、まぁ嬉野はそのすぐ北にあるので「邪馬台国では朱が採れる」に当てはまる。宮崎康平まぼろしの邪馬台国』のアイデアはこの辺から来ていると思われる。



余談で、吉野ヶ里遺跡には南の方に4基の前方後方墳もあったらしいがこれもどうなっていたのかほとんど情報がない。



2020年に吉野ヶ里公園を訪れたときのブログ。

参考 「吉野ヶ里歴史公園 パート1」佐賀県神埼 - chayarokurokuroの雑記ブログ

北墳丘墓
「吉野ヶ里歴史公園 パート7」佐賀県神埼 - chayarokurokuroの雑記ブログ



この墳丘墓の北に甕棺墓群が列をなして埋まっていた地区があるようですが見ていない。その列の突き当たりに日吉神社(謎エリア)があった。訪問当時は神社があることすら知らなかった。18世紀に建てられた神社らしい。

石棺が埋まっている事を知っていたからこそ、その場所に神社を建てたのではなかろうか。ということは、盗掘済み? 来週判明するかな。



吉野ヶ里公園内の日吉神社について、歴史ブロガーの綾杉ルナさん「ひもろぎ逍遙」佐賀(22)日吉神社(吉野ヶ里町)北に眠る絹を着た女性と前漢鏡 : ひもろぎ逍遥によると、北墳丘墓の西の丘陵の上、日吉神社の周囲の甕棺墓から初老ほどの女性と前漢鏡、銅剣の鋳型が出土しているのだとか。
今回の石棺の主の先祖?



続編
吉野ヶ里遺跡の謎エリア、石棺から人骨・副葬品は見つからず - chayarokurokuroの雑記ブログ