chayarokurokuroの雑記ブログ

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遣隋使は秦王国(豊日別=豊国)が行った?

「遣隋使は筑紫国の東にあった秦王国=豊日別(筑豊・大分)が派遣した」のではないだろうか。

記紀』における遣隋使は推古天皇時代にあたる。推古天皇の和風諱号を豊御食炊屋姫天皇といい、「」がつく。豊国の人だろうか。

登場人物として、『隋書』『記紀』含め

  • 遣隋使を派遣する推古天皇、派遣される小野妹子(中国名=蘇因高)、通訳で同行する鞍作福利、俀国王の阿毎・多利思北孤とその妻、その太子・利歌彌多弗利、小徳阿輩臺、

  • 隋側では、派遣されてくる文林郎・裴清、名前は出ないが隋初代・文帝、二代目・煬帝…など。



これらの日本側の登場人物らは全て秦王国の人間であると捉える趣旨の投稿です。※九州倭国でも日本国(ヤマト王権)でもありません。



隋とは

は、581~618年に300年ぶりに中国を統一した国。官僚の登用を世襲制ではなく実力によって決める「科挙」を始めたことで有名で、これは隋以降、清の時代まで1300年も続きます。日本や朝鮮、ベトナムにも影響を受ける。ですが、2代で滅亡します。理由は大規模な運河建設や数回の高句麗遠征などでの圧政で内部分裂。
王の姓は楊氏で、『隋書』には後漢の有名な官僚の楊氏の末裔だとあるそうですが、(とうぜん漢民族との混血はあるだろうが)北魏と同じく騎馬民族鮮卑族ではないかと考えている学者が多いようです。



日本列島と隋との関係

記紀』では推古天皇の時代にあたり、何度か遣隋使が送られているようです。隋側の記録では『隋書』の「俀国伝」に出てきます。
『隋書』と『記紀』との内容の違い、遣隋使の回数が学者によって一致しない、推古天皇とは性別の異なる俀国王(倭国王?)が登場するなど、幾つか不審点があります。

『隋書』における「倭国」と「俀国」

まず誰もが最初に気づく点で、国名が本来の「倭国」ではなく「俀国(たい)」となっている。これは写し間違えた訳ではなく、意図的に本来の「倭国」とは別の国だと匂わしているのではないでしょうか?

それぞれの漢字の意味は、

  • 「倭」:「従順なさま、曲がりくねって遠い」
  • 「俀(たい)」:「弱々しい」



隋の次の王朝「唐」の歴史書旧唐書/新唐書』では「倭国と日本国は別種」の国であるといい、別の国として別々に記されています。

「日本国はもともと小国」だとも書いてあるが、この解釈として

  • 「日本国は歴代中国王朝や外交関係者等が認識出来なかったほどの小国」という意味か、
  • または『隋書』における「俀国(弱々しい国)」を指して「もともと小国」と言っているのか

つまり『唐書』は『隋書』を引きずっている可能性。同一視ということ。



『隋書俀国伝』の内容

ざっくり内容を見ていきます。気になる箇所だけ。
参考 隋書倭国伝 - Wikisource



俀国の場所

まず最初に場所が書かれている。

俀国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中 依山島而居 魏時譯通中國三十餘國 皆自稱王 夷人不知里數但計以日 其國境東西五月行南北三月行各至於海 地勢東高西下 都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也 古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里在會稽之東與儋耳相近 漢光武時遣使入朝自稱大夫 安帝時又遣使朝貢謂之俀奴国

魏志』や『後漢書』をまとめてあるようです。注目するのは

地勢東高西下 都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也

俀国の都の位置を記載している。「ヤマタイ、すなわち『魏志』のいう邪馬臺国」と読んで良かろうか。
600年代に入っても卑弥呼時代から都の場所は変わっていないという認識だと私は解釈します。邪馬台国畿内説論者が必死なのはこの部分が大きい。頼みの綱は600枚近く出土している呉系で粗悪な大量生産品の三角縁神獣鏡だ。無茶し過ぎかと。



邪馬台国について

桓霊之間 ( 中略 ) 中国相通

倭国大乱から卑弥呼が共立される部分を『魏志』や『後漢書』から引用しているようです。卑弥呼の秘書みたいな人が「男子二人」になっている。元は1人だったので写し間違い?



俀国王の名前

次は、過去の歴史書にない、新しい部分です。

開皇二十年 俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕 上令所司訪其風俗

「開皇」とは隋の初代文帝の年号で、開皇20年は西暦600年を指す。
記紀』で最初の遣隋使は推古天皇8年だが、それより前の西暦600年に遣隋使を出した記事は載っていない。たぶん意図的に載せなかったのだろう。

最もおかしいのは、推古天皇の時代なのに俀国王の名前が男性として載っている点。天皇と俀国王が同時期に別人として存在する。

俀国王の姓を「阿毎」といい、字を「多利思北孤」、「阿輩雞彌」と号するという。アマ・タリシヒコ・オオキミなどと読むんでしょうか、

哆唎(タリ)の彦で阿波(安房)君とか解釈できそうではないか。たとえば朝鮮南部の哆唎国司を務めた穂積押山のような人物で、俀国王も兼任するような。
しかし九州倭国説論者の私的に、「倭王」が徳島や千葉の君だと困るw。『竹取物語』の竹取りの翁(「竹」は筑紫、「取り」は倭王の意)が讃岐にいたり、千葉の古墳の副葬品の豪華さからすると、意外とあるのかも…
倭国と俀国も別の国を指している可能性を考慮すれば九州倭国説でいける。もしくは徳川幕府の御三家的な体制だったとか。だが、あくまでも都は九州で。本州四国だと遠いし不便。有事の対応が遅くなる。仲哀・神功・斉明・天智が宮を筑紫に移す話しになっているのは、実際的に関西中心だといろいろ難しい為だ。

さて、推古と俀国王という性別の異なる二人のリーダーが登場する。「推古天皇倭国(=俀国?)におけるポジションは何なのか?」が問題になる。

森博達氏の「日本書紀のα群β群分類論」という説があります。それによれば、雄略天皇以降は正式な漢文で書かれたα群、それ以前の天皇は倭習の多い(倭風の、いわばインチキな)漢文で書かれているβ群の2つに分類できるという。雄略以降のα群が先に書かれている。

推古と舒明は雄略以降の天皇ですが、この2つは倭習が多いためにβ群に分類されている。つまり、その部分だけをあとから追加したかして編集してあるせいでか、推古天皇と俀国王アマ・タリシヒコが重なりあう理由を生んでいる。
※『隋書』に推古天皇は出てこない。



天を以て兄、日を以て弟となし、我が弟に委ねむ

『隋書』でクローズアップされる箇所です。

使者言 俀王以天為兄以日為弟 天未明時出聽政跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰此大無義理 於是訓令改之

遣隋使がいうには、俀王は天を兄、日を弟とするという。

「天が未だ明けざる時に出でて政を聴き、跏趺して坐す。日出ずれば、すなわち理務を停め、我が弟に委ねむと云う

の部分の最後は、「俀王自身がその地位を我が弟に委ねよう」と言っていると遣隋使が(嘘か真か)述べている。ここを言い換えると、遣隋使は「王朝交代をするが如何お考えでしょうか?」と訊ねていると私は解釈する。それに対する高祖(初代・文帝)の返答は「義理なし(道理に合わないので却下する)」。

我が解釈では、「天=兄」は俀王(倭王)のことで、一大率の一大、ワタツミや安曇などの海神族、筑紫君、月(天が明けざる)、または海幸彦のことを指す。
「日=弟」は、豊日別、武日、日下、火君、または山幸彦の事か。とにかく「日」。

この遣隋使は「日=弟」の側から送られたものと仮定し、勝手に「天=兄が王を弟に明け渡すと言ってますけど、どうですか」と伝えている状況ではないかと考える。

隋皇帝に却下されましたけど。皇帝は勝手に他国のリーダーの入れ換えに口を挟まない。火種のもとになるので。



俀国王の妻と息子、官職

王妻號雞彌 後宮有女六七百人 名太子為利歌彌多弗利 無城郭 内官有十二等 一曰大德 次小德 次大仁 次小仁 次名太子為利歌彌多弗利大義 次小義 次大禮 次小禮 次大智 次小智 次大信 次小信 員無定數 有軍尼一百二十人猶中国牧宰 八十戸置一伊尼翼如今里長也 十伊尼翼屬一軍尼

俀国王には妻がいる。「雞彌(キミ?)」と号する。推古天皇は女性であるので俀国王と天皇は別人。別の国。

名太子為利歌彌多弗利 無城郭」の部分では俀国王の太子の名前が出ている。

通常は「太子の名を利歌彌多弗利と為す、城郭なし」と訳してあるが、
「太子の名前は為利歌で、彌多弗利は城郭なし」と訳すると、

太子はイリカすなわち蘇我入鹿で、その後の彌多弗利未冬夫里縣という朝鮮南部・全羅南道の光州市の昔の地名を指す、などと解釈できてしまう。そこは倭系の古墳が点在する地域。考古学の高田貫太教授がいうには、九州系の古墳だという。

5世紀頃から高句麗は南下を始め、長寿王は475年に百済の蓋鹵王を捕まえ処刑した。これにより百済は一旦滅亡するが、倭国へ援軍要請して復活する。倭系古墳(九州系)が半島南西部にあるのはこの為だろう。熊本周辺の古墳は百済系の副葬品がよく出るという。

また、そのころ新羅高句麗に占領された形になっているようで、6世紀頃から脱高句麗化を図るべく新羅倭国と交渉していた模様。
日本書紀』の「筑紫君磐井が新羅から賄賂を貰っていた云々」という記述は、その辺の状況を反映するのか。北九州や遠賀川流域の6世紀頃の古墳では新羅系の副葬品がよく出るようです。

高句麗にとっては、倭と新羅や倭と百済の提携は快く思わなかったかも。



俀国人の格好

其服飾男子衣帬襦 ( 中略 ) 雜皮為表縁以文皮

省略。



俀国の軍

有弓矢刀矟弩讚斧 漆皮為甲骨為矢鏑 雖有兵無征戦 其王朝會必陳設儀仗奏其国楽 戸可十万

皮に漆を塗って甲冑とし、矢じりは骨を使うのだと。鉄製の甲冑や矢じりではない。弱々しそうではないか。攻め込めば勝てそうじゃないか。
兵はあるが征戦なし。やり合ってはいないらしい。戦争慣れしていなさそう。弱々しそうじゃないか。攻め込めば勝てそうじゃないか。
家の数は10万戸。魏志では邪馬台国は7万戸だとあった。



俀国の治安や刑罰

其俗殺人強盗及姦皆死 (中略) 罕爭訟少盗賊

省略



俀国人の文化

楽有五絃琴笛 男女多黥臂點面文身 没水捕魚 無文字唯刻木結繩 敬佛法於百濟求得佛經始有文字 知卜筮尤信巫覡

俀国は仏法を敬い、百済に経典を求めて文字を使い始めたという。倭の五王の上表文では中国の古典や美文を書く高い知識と教養が表れている。文字による記録がなければ数百年間の歴史は『記紀』に載せられなかったのでは。まさか全てが口伝とか、全くの創作でもあるまいし。



俀国の娯楽、気候と風習

毎至正月一日必射戯飲酒 (中略) 及葬置屍舩上陸地牽之或以小轝

省略。



阿蘇山と俀国の珍宝

阿蘇山其石無故火起接天者 俗以為異因行禱祭 有如意寶珠其色靑大如雞卵 夜則有光云魚眼精也 新羅百濟皆以俀為大國多珎物並敬仰之恒通使往來

阿蘇山があり、その石は理由なく天に接するほど火を起こす」とは火山のことだろうが、もしや石炭のことかも? 近くに三池炭鉱がある。
日本書紀』天智7年(668)に越国から「燃える水」が献上されたという記述あり。たしか戦中に石油を止められ新潟の油田の開発をやってましたね。



俀国王の無礼な朝貢

大業三年 其王多利思北孤遣使朝貢 使者曰聞海西菩薩天子重興佛法故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法 其國書曰 日出處天子致書日没處天子無恙云云 帝覧之不悦謂鴻臚卿曰蠻夷書有無禮者勿復以聞

大業は隋の2代目・煬帝の年号で、大業3年は西暦607年を指す。俀国王・アマ・タリシホコは「日の出る所の天子より、日の没する所の天子へ。おかわりありませんか」と喧嘩をふっかけている。デンデン。

煬帝高句麗へ598年~614年まで4度の遠征を行ったというが、隋の目を俀国に向かせて高句麗攻撃を緩めようとする意図があったとしたら…遣隋使を送ったものは高句麗贔屓…



隋書の大業3年=西暦607年は『日本書紀』だと推古15年にあたる。その年や記述には小野妹子が「 大唐 」に遣隋使に出ている。

日本書紀』推古15年
大禮小野臣妹子遣於大唐 以鞍作福利為通事

鞍作福利という者を通訳で同行。「鞍作」と言えば蘇我入鹿だ。俀国王の太子は為利歌彌多弗利。

  • ソ・インコー → ソインコー → スイコ → 推古

  • 小野妹子 → 蘇因高 → 蘇我因高 → 蘇我馬子

  • 名為利歌彌多弗利 → イリカ・ミタフリ → 未冬夫里県(全羅南道光州)の入鹿



引き揚げ者か何かだろうか。

小野妹子の遣隋使(607年)の翌年に隋から文林郎・裴清が遣わされる

明年 上遣文林郎裴淸使於俀国 度百濟行至竹島 南望聃羅國經都斯麻國逈在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏 以為夷洲疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀

小野妹子の遣隋使の翌年608年に、隋は裴清という者を俀国に遣わせた。百済から竹島済州島を南に望みながら対馬国壱岐国筑紫国に到り、その東に「秦王国」がある。そこの人たちは中国と同じ風習だという。そのまた東に10ヵ国ほど過ぎると海に出る。秦王国は筑紫の東なので豊国(筑豊か大分)だろう。立岩遺跡や鹿毛馬神籠石や大分八幡宮のある飯塚か、香春(かわら)神社や香春岳のある田川か。
御所ヶ谷神籠石のある行橋や京都郡や、または宇佐だとほとんど海沿いの街なので違う。

『隋書』があえて「秦王国」の名前を出しているのは、秦王国が遣隋使を送って来た主体だからだ。だから裴清は立ち寄っている。



自ら「筑紫国より以東は俀国に属している。」と言っているという。『隋書』が「自」とわざわざ書くのは「自称しているが疑っている」という意味だろう。



ここの解釈が2つのパターンに別れる。

  1. 俀国の都は筑紫より西にある
  2. 俀国の都は筑紫より東にある

2だと九州は分裂していることになる。(本来の)「倭国(九州)」(であるはずの)より、「俀国」はデカい。遣隋使の自称だが。



文林郎・裴清を迎える俀国遣の小徳・阿輩臺

俀王遣小徳阿輩臺 従數百人設儀仗鳴皷角來迎 後十日又遣大禮哥多毗従二百餘騎郊勞 既至彼都

秦王国に到った描写の後に小徳・阿輩臺という人物が数百人で歓迎セレモニー。10日後にまた大禮・哥多毗が200騎を従え、労を労った。既にその都(俀国の)に到る。

秦王国(たぶん筑豊・大分)から東に10余国行って海に出るとは書いてあるが、そこから船に乗って何処かへ到着するような描写がない。秦王国=俀国の都だから「既にその都に到っている」ということだろうと解釈した。



文林郎・裴清の俀国王謁見

其王與淸相見大悦曰我聞海西有大隋禮義之國故遣朝貢 我夷人僻在海隅不聞禮義 是以稽留境内不卽相見 今故淸道飾館以待大使 冀聞大國維新之化 淸答曰皇帝徳並二儀澤流四海 以王慕化故遣行人來此宣諭 既而引淸就館

「日の沈む天子」と挑発した甲斐があってw、隋からの使者に会うことが出来た俀国の王は大いに喜んでいる。「我は礼儀知らずの東夷なもんで、直ぐに会わなかった」と10日も待たせた言い訳をしている。



文林郎・裴清の歓迎パーティーと帰国

其後淸遣人謂其王曰 朝命既達請卽戒塗 於是設宴享以遣淸 復令使者随淸來貢方物 此後遂絶

そのあと裴清は人を遣って俀国王に託けた。「隋朝廷の命令は既に達成したので、帰国の準備をよろしくどうぞ」。宴が催され、貢ぎ物を持たせた使者を随伴させて裴清は帰国。
その後、俀国との接触は途絶えた。

ここまでで『隋書俀国伝』は終了。

おわりに、まとめ

私は、本来的な「倭国」の都は有明海沿岸東側の何処かにあると考えている。その都が魏志でいう邪馬台国のこと。

『隋書』に出ている「俀国」は「倭国」ではなく、筑豊・大分の何処かにあった、「秦王国」のことだ。ここが遣隋使を送っている。
推古天皇はこの秦王国の人物で、和風諱号の「豊御食炊屋姫天皇」の「豊」は豊国・豊日別の豊。

推古天皇の父親は欽明天皇だが、その和風諱号は「天国排開広庭天皇」といい、「アマの国を廃して広庭を開く天皇」、倭国とは別の国(秦王国)を開いた人物という意味だろう。

推古天皇の母親は蘇我堅塩媛という。上で見てきたように、遣隋使の関係者は蘇我氏の影が見えるが、系譜上も繋がりがある。
「堅塩媛」の堅塩だが、雄略天皇獲加多支鹵」を「カク・カタシロ」と読むとそこにも繋がる。「鹵」には塩という意味がある。雄略は秦王国の前身となる勢力の人間で、雄略に潰された勢力とは異なるのではないか。雄略のやり口は粗っぽい。



裴清を出迎えた小徳・阿輩臺粟田だ。小徳大使の粟田。小徳大使=聖徳太子遣唐使粟田真人本人か、その先祖。『日本書紀』の遣隋使は隋を「*大唐」と書いている。時代が100年ずれているが、本人である可能性がある。



聖徳太子のブレーンは秦河勝。「秦皮」と書いて「トネリコ」と読む。『日本書紀』の編纂者は舎人親王(とねり)だ。

トネリコ 参考
梣とは - コトバンク
秦皮とは - コトバンク
榛とは - コトバンク



倭国」の歴史を消して「ヤマト王権」中心的な歴史観に書き換えた中心勢力が秦王国だったのだろう。秦王国=後の日本国。