chayarokurokuroの雑記ブログ

読書記録、書評、歴史(九州王朝)など

「諫早公園」と「高城神社」長崎県諫早市

長崎県諫早市諫早(いさはや)公園高城(たかしろ)神社へ行って来ました。

前回の諫早神社(四面宮)の近くです。

場所

Make this Notebook Trusted to load map: File -> Trust Notebook



f:id:chayarokurokuro:20201206012708j:plain

f:id:chayarokurokuro:20201206012740j:plain

f:id:chayarokurokuro:20201206012751j:plain

f:id:chayarokurokuro:20201206012819j:plain

f:id:chayarokurokuro:20201206012846j:plain



今回は公園や高城跡の中には行かず、隣の高城神社へ。

f:id:chayarokurokuro:20201206013010j:plain

f:id:chayarokurokuro:20201206013146j:plain
狛犬の台座に菊の御紋が入っている…と思ったが、龍造寺家の「日足紋」かな。

f:id:chayarokurokuro:20201206013205j:plain

f:id:chayarokurokuro:20201206013321j:plain

f:id:chayarokurokuro:20201206013358j:plain

後ろを振り返る

f:id:chayarokurokuro:20201206013514j:plain


f:id:chayarokurokuro:20201206013553j:plain

f:id:chayarokurokuro:20201206013625j:plain

f:id:chayarokurokuro:20201206013728j:plain


正一位 鶴森稲荷大明神

f:id:chayarokurokuro:20201206013839j:plain



「若杉霊神」
f:id:chayarokurokuro:20201206013906j:plain

f:id:chayarokurokuro:20201206014004j:plain
江戸中期(1750)、佐賀藩は財政立て直しの為と諫早領主の不調法を理由に諫早領内4000石を没収した。
これに憤慨した百姓らが立ち上がり、諫早藩士の若杉春后(72歳)を先頭に長崎奉行・日田代官・大阪城代に訴えようとした。
この事を知った佐賀藩は若杉らを捕らえ、処刑する。しかし17年後に領地は返還し、一命を堵して立ち上がった若杉春后らの霊神を祀った。



高城神社由緒
f:id:chayarokurokuro:20201206015501j:plain


創建は明治15年(1882)。祭神は龍造寺家晴公。菅原道真公の天満宮も祀る。
もともと現在の高城公園内にあったが、昭和32(1957)年の諫早大水害を期に現在地に移した。



f:id:chayarokurokuro:20201206020044j:plain

f:id:chayarokurokuro:20201206020107j:plain

f:id:chayarokurokuro:20201206020129j:plain



諫早城址 西郷井戸」
f:id:chayarokurokuro:20201206020155j:plain

西郷井戸は、この山城が出来た頃に掘られていて、頂上の高城(たかしろ)で使う水はここから汲み上げていたと考えられている。
天正15年(1587)龍造寺家晴(初代諫早家)は、西郷家の高城(たかしろ)を手に入れて伊佐早地方の領主となった。その戦いのとき、高城から逃げた西郷軍を龍造寺軍は追跡し、埋津川を渡ったところの扇畑で討ち倒した(陣の辻決戦)。高城に戻った龍造寺軍の将兵は、西郷軍の首をこの井戸で洗って、家晴に差し出した。この言い伝えから、この井戸は西郷井戸と呼ばれている。

f:id:chayarokurokuro:20201206021254j:plain

f:id:chayarokurokuro:20201206021311j:plain


室町時代に全国各地にできた国衙領(公領)として「西郷」が数多く成立。この「西郷」の郷司として名字にしたのが全国の西郷氏の由来という。
その中でも北部九州に猛威を震い最も歴史が古い名族として肥前伊佐早荘の西郷氏が知られる。

西郷氏 - Wikipedia



西郷の「西」を「ニギ」と読み、諫早の「早」とくっ付けると「ニギハヤ」になり「饒速日命」っぽくなる。

ニギハヤヒ
父 : 天忍穂耳(または荒木臣)
母 : 栲幡千々姫(高皇産霊神の娘)

「荒木」の地名は諫早の対岸の筑後にある。諫早は「高来県」で、「栲」は佐賀に「多久」があるし、「千々」のつく地名も島原や長崎市にある。
諫早城を「高城」というのは何故なんだろう。別名を「亀城」。
「高」に「亀」、日本神話の匂い。島原の国見には「神代」の地名も。

同じ名前の神社としては、埼玉県熊谷の総鎮守・高城神社。
忍藩主阿部豊後守忠秋が再建と。同じく亀にちなんだ像があったりするようで。手水舎は家臣の中村氏が寄進と。
阿部氏はアペ=火で、阿=クマとも読み、安曇族。また、 潮見神社宮司さんが言うには、全国の渋江氏・中村氏・牛島氏は肥前武雄の橘氏からの発祥と。



また、高良大社の麓に高城神社。
4世紀に高良山の山頂から高木神は下ろされた。物部氏の台頭や倭の五王南朝朝貢に絡んでの政権交代があったと思う。
磐井の乱から半世紀後の遣隋使。隋は北朝系の鮮卑族といわれる。
「筑紫君の児の筑紫火君筑紫火中君」兄弟のどちらかが、豊国(秦王国)=偽倭国=俀国で遣隋使に行ったんじゃないか。
「天を以て兄と為し、日を以て弟と為す、云々かんぬん」だから筑紫火中君が俀国か。
「高祖曰 此太無義理 於是訓令改之」で改めろと言われて、乙巳の変か。



隋書にある「名太子爲利歌彌多弗利」は、(俀国王の)阿毎・多利思北孤・阿輩雞彌の太子を「利歌彌多弗利」と言っているが、1文字前の「爲」も人名として読み「爲利歌彌多弗利」とすると「イリカミタフリ」と読める。
蘇我入鹿のことだ。

  • 「イリカ」は「入鹿」
  • 「ミタ」は佐賀の「筑紫米多君」の「米多」
  • 「フリ」は遣隋使の通使の「鞍作福利」の「福利」。蘇我入鹿は別名「蘇我林臣鞍作

つまり、蘇我入鹿 = 筑紫米多君 = 鞍作福利。

ついでに、小野妹子 = 蘇因高 = 蘇我馬子とすると、 蘇我馬子の孫が蘇我入鹿なので、お爺ちゃんと孫で遣隋使に行ったことになる。
よって、俀国王(偽倭国)の阿毎多利思北孤阿輩雞彌の正体は、蘇我蝦夷
年代的に厳しいか?



高城神社からだいぶん脱線した。