chayarokurokuroの雑記ブログ

読書記録、書評、歴史(九州倭国説)など

大和朝廷(日本国)の元は筑豊・大分の秦王国で、更にその元は熊本勢力

ずっとウズウズしていたものを吐き出す。まとまっていない。九州倭国王朝目線での狂人の妄想の類い。

奈良の時代は奈良時代から始まる

8世紀、納豆食べて平城京。710年から始まる奈良時代。日本国=大和朝廷はここからスタートするが、大和朝廷は『隋書』に登場する秦王国が基だと私は考えている。

奈良時代」という時代区分が設けてある理由は、「奈良が中心になる時代は奈良時代から」と歴史学者は考えているからだ。もし古墳時代から奈良が中心と考えているなら、わざわざ「奈良時代」なんて区分作りますか?



ヤマト王権」「ヤマト政権」は昔の教科書では「ヤマト朝廷」と呼んでいた。しかし「朝廷」には中央集権の意味があるためこれを不適切とし、「王権」「政権」に変えた。
つまり歴史学者の本音は、古墳~飛鳥時代の関西を中央や中心とは考えていないという事だ。実際ヤマト王権は中央集権ではないと教えているはずだ。
しかし、あたかもヤマト王権が中央集権であるかのような矛盾した学説や与太話が今も数多く見られる。
しかし、ではなぜヤマト王権は中央集権ではないのか。

たとえば『日本書紀』の履中天皇の奥さんの黒姫が筑紫に課税しようとして筑紫大神の怒りを買い変死する事件。天皇なるものは九州に課税できていない話になっている。

また、ほとんどの中国史書には日本に複数の国々があるように書いている件。古くは100余国とあり、それぞれに国王がいる。勝手に王を名乗っている。『日本書紀』はこれに関して全く触れていない。複数の独立政権が日本各地にあったとする方が自然。

古墳や金属製品の作り方など技術的なものや宗教・文化的なものなどは、何も中央集権的権力が介在せずともミーム的に伝播していく。戦国時代の城や現在の高層ビルは天皇やら日本政府やらが関わってどうこうした訳ではなく、人民が勝手にやってる訳です。地方のイカれた首長が「明日からワシはキリシタン大名になるぞ」と神社や寺を焼き払い散らかしたりしだす訳です。何でもヤマト王権の手柄にするのは如何か。



また、中国史書に関西が全然出てこない件。出てくる地名は九州ばかりで、関西の地理的描写も関西までの道程の描写も全然ない。ヤマト王権とやらはどこ行った?
奈良を日本国内における政治的中心と読む事はまず不可能です。

古墳の解説で地元の教育委員会が書いた文章の中には、ヤマト王権を指して「中央」と書いているものがしばしば見受けられる。そういうものを見掛ける度にブチギレしている訳ですけど、ヤマト王権が中央集権ではないと教えながら、一方で「中央」と書く。
こういう矛盾した事を平気で書くのは止めて頂きたい。



邪馬台国論争は何のために?

なぜ邪馬台国「だけ」が着目されるのかと言うと、中国史書の『北史』や『隋書』に「倭国の都は邪馬台国」だと大変重要なことが書かれている為だ。『魏書』には「女王のいる所」とは書いても倭国の都とまでは書いていない。
邪馬台国は飽きただろう?文身国論争で畿内説を唱えてもらって良いですか。

日本古代史の通説では、弥生時代では倭国は九州を指していると説明する。時代がくだるにつれて倭国は東へ拡大するとしている。
では一体倭国とはどういう国だったのか。その証言として中国や朝鮮の歴史書は何と書いているのか。それを読む事が「倭国」を知る第一歩だと考えるだろう、普通は。

だがおかしな事に、日本古代史は中国史書を都合よく無視する。言及すら避ける。
実は日本古代史の学者は邪馬台国論争に触れない。メディア上では学者個人の意見を述べる事はあっても、邪馬台国に関する学術論文を書いたり学会で発表する事は全然ないという。また指導教官から「邪馬台国論争には関わるな」と言われると寺沢某が産経新聞に書いていた。それはなぜか。

この章の結論として、(ゲスの勘繰りだが)、「ヤマト政権=倭国」と思わせようとする小細工の為。
ヤマト王権倭国に背乗りさせる頓珍漢理論が日本古代史の全容。バカな国民に「天皇=倭王」「古墳時代の奈良=日本の中心」と思わせたいのだ。その為には奈良が邪馬台国でなければならない。なぜなら邪馬台国は(7世紀になっても)倭国の都だと中国史書にあるからだ。都合良い部分だけは利用しようとしている。

根拠らしい根拠もなく「邪馬台国畿内である。」と(非学術的でも)アマチュアが言い続ける事が邪馬台国論争のもう1つの目的。そしてプロはヤマト王権が日本を牛耳っていたかのような学説を立てる。でも色々誤魔化してるから全部が頓珍漢学説。



「だまらっしゃい! 国家にはファンタジーが必要なのです!」

朝鮮の歴史学者檀君神話を事実としたがるのも同じ。
邪馬台国論争は邪馬台国畿内説の為だけに存在するのです。



邪馬台国論争における畿内説と九州説の立場

古くからある邪馬台国論争において、尊皇派や皇室、神道系の人たちは邪馬台国九州説を採ってきた。「記紀」には卑弥呼も臺与も倭の五王も何も登場しないし、天皇でもない女性が奈良で王をしていたなんて説は建前上受け入れられないからだ。

神社で神職の方々と歴史問答をしてみると面白い。彼らはたいてい邪馬台国卑弥呼倭国については神道の立場上一切を無視する。「そんなの知りません」って感じの反応。事細かく歴史年表を覚えているほど学があるのに、『日本書紀』や頓珍漢古代史学説の受け売りのような事しか言わない。
九州王朝説などで有名な神社は参拝者からの質問が多いのかサービス精神からか、もう少しマシな受け答えをされることが多い。面白い話が聞ける。

そういう訳だから、邪馬台国畿内説論者の立場は政治的国家ファンタジー的にヤバい。逆賊である。狂信的ウヨから千沼海に沈められるレベル。
一方、邪馬台国九州説は中国史書を結構鵜呑みにしており、記紀ディスる。シナの手先である。国賊である。ウヨにボコられる立場。と言いたいところだが、尊皇派や神道派は昔から現在まで九州説だ。話がややこしい。
明治時代に『日本書紀』を引っ張り出して来てバイブルにした為こんなことになってしまっている。



古墳時代の関西はどんな場所?

梁書』に文身国なる国が登場する。そこは倭国から東北に7000里離れており、金銀珍宝や水銀を溜め込んでいるという。食糧事情が良くなかったのか旅行客に食事を提供しないケチな国だ。
梁書』にはこうした黄金の国ジパングの元ネタのような事が書いてあるのだが、文身国がいわゆるヤマト王権の事だと考えている。
倭国から東北に7000里。福岡から奈良まで約700km、溜め込んだ水銀の源となる大和水銀鉱山がある。

魏志倭人伝の1里は60~100mで書かれている。7000里=700km、ちょうど良い距離。
文身国を出雲だとか阿波だとか考えるにしても、倭国は九州を指している前提での話。



文春新書『邪馬台国は「朱の王国」だった』蒲池明弘という本がある。神武天皇が東征する理由は辰砂の採掘目的では、というような内容だったか。九州で取れなくなったので東に移った、と。水銀は大昔から世界的に価値が激しく高かった。賢者の石です。不老長寿の霊薬です。

(※ 追記: 神武東征の理由を辰砂採掘と考える説は著者のオリジナルではなく、昔からあったらしい。本文中に紹介されています。)

神武天皇は各地の「宮」にそれぞれ数年間ずつ滞在。「宮」は辰砂鉱山のある場所とかぶっているという。
また神武天皇東征の際、兄の五瀬命が矢でヤラれて流れ出た血のつく手を洗ったのが千沼海。血は水銀朱の比喩だ。大阪湾は辰砂の輸出貿易港として機能していたのだろう。上陸するのも紀伊半島を回って伊勢の辺りからだ。伊勢には良く採れる水銀鉱山がある。朱にまつわる話が散りばめられている。

九州や四国や吉備にいた人たちの一部が東に移り住んで辰砂採掘していたのが作ったのが纏向遺跡など奈良の遺跡だろう。これがヤマト王権と呼ばれている勢力で、緩やかな連合政権だとされる。のちの文身国だ。水銀の草狩り場の寄合世帯。日本武尊も水銀中毒で足が三重に曲がったりなんだり。
九州から移動した勢力は、卑弥呼が共立されるより前に倭王をしていた国や狗奴国のような敵対勢力が主か。



『隋書』の秦王国は大和朝廷の前身

『隋書』には隋の官僚が日本列島に派遣された時の様子が描かれている。
筑紫の東に秦王国がある。10余国いくと海に出る。10日待たされる。既にそこは都である。王の阿毎多利思北孤阿輩雞彌に会う。

筑紫の東を10余国過ぎて海に突き当たる所に秦王国の都があった。筑豊・大分が秦王国。王である阿毎・多利思北孤・阿輩雞彌は従って秦王国王。
多利思北弧は倭王ではない。なぜなら、『隋書』には邪馬台国倭国の都で地勢は東高西低(東高西下)だと書いているから。多利思北弧の都は東海岸なので、倭国の都・邪馬台国ではないことがわかる。
さらにその国(豊国の秦王国)が初めて中国に詣でたのは隋になってからと書いている。磐井の乱の後に倭国から独立したのだろう。欽明天皇が初代秦王国王ではないかと考える。

『隋書』には、秦王国から海を渡って四国や関西に行くような描写はどこにもない。多利思北弧と会った都が関西だとは絶対に読めない。『日本書紀』に書いているから関西での出来事だと勝手に解釈しても、そもそもその頃の天皇推古天皇で、多利思北弧ではない。色々辻褄が合わない。

新唐書』には隋書の目多利思北弧は用明天皇と書いている。用明天皇=多利思北弧=秦王国王。その秦王国王が天皇をやっていた話になっているのだから、大和朝廷の前身は秦王国なのだ。

弓削道鏡宇佐八幡宮神託事件というのがある。天皇を決めるのに地方の神社ごときの神託になぜ耳を傾ける必要があったのか。それは大和朝廷の前身が豊国に都を置く秦王国だったからに他ならない。

倭国白村江の戦いで唐・新羅連合軍にやられた上に筑紫大地震でシッチャカメッチャカになっている。その間に秦王国が倭国の別種の日本国を建て、ごっつぁんゴールしたのだ。しかも日本という国号は百済で作られている。あべこべである。どういう勢力なのかわからない。秦王国の文化風習は中国と同じだと言う。欧米化した明治維新のように、当時のグローバルスタンダードで中華化した先進的地域だったとも考えられるし、中国人やその他朝鮮半島人や帰国子女の集まる国際色豊かな国とも考えられる。

いずれにせよ、『隋書』の会話内容や『日本書紀』の聖徳太子のようなものから分かることは、それらは倭国の政権中枢を担うエリート勢力ではなく、革命思想を持つ維新勢力の思想であって、彼らは位が高くない者たちだろう。始皇帝が初めて中国を統一した「秦」にちなんだ国名であるから日本列島を統一すべきと考える勢力だったかも知れない。
秦王国はそれ以降、隋との関係を絶った。



『隋書』に阿蘇山が登場する理由

『隋書』に阿蘇山が登場する理由は何だろう?筑紫の東にあった秦王国の元になっている勢力は熊本なんじゃないか。だから阿蘇山の事を書く必要があった。

九州の6世紀の古墳は肥後系のものが次第に北上していく感じで広がっている。九州にとどまらず、北関東まで広範囲。
535年ころインドネシアのクラカタウが大噴火し世界的な被害をもたらします。それとの連動かわからないが、肥後系古墳が北上している理由は阿蘇山の噴火もあったのだろう。どうしても北上したいと。

蘇我馬子は資料によっては「蘇我有明子」と表記してある。有明海蘇我有明子ではないか。
九州の物部に巷宜(そが)物部というのがあったという。蘇我氏は実は九州の物部だ。新撰姓氏録によれば田中臣や坂本臣は蘇我石川宿禰の末裔という。物部田中神や坂本神社など関係性のありげなものが福岡県内に点在する。蘇我石川は武内宿禰の子だ。久留米の高良山高良大社奥の院武内宿禰の墓だと現地の案内板に確かあった。武内宿禰の子には他に波多八代宿禰。八代って熊本の八代(やつしろ)だろう? なぜ波多(秦?)なのか。秦氏との混血か?
伊勢も蘇我氏がいて、壬申の乱後の出雲国造蘇我氏(蘇我果安ハタヤス)、岩手の辺りにも蘇我君ナニガシという人物がいたようで。

で、熊本の勢力がなぜ豊国秦王国の元と言えるのか。いや、何となく。
兄は天で弟は日。日は「日下部」のようにクサとも読む。天日=天草で熊本。何か関係あろう。江戸時代にキリシタンが反乱起こすのはとりあえず天草だ。火葦北君や息子の日羅は熊本勢。朝鮮半島勢力やそこの倭人勢力と深い関係。日羅が「我が君」と呼ぶのは大伴金村で、彼は継体天皇を擁立したり磐井の乱で磐井と敵対する。

どこの馬の骨ともわからない継体天皇を擁立することになったのは、雄略天皇ヤマト王権の王族をみんな滅ぼしたからだ。世継ぎが居なくなった。ヤマト王権=文身国は継体で王朝が変わっている。

継体は応神五世だという。応神は宇佐八幡宮に奉られる。継体天皇の真の古墳という大阪府高槻市の今城塚古墳の石棺は熊本県宇土市の馬門地区で採掘された阿蘇ピンク石を使用。馬門はミカドか。熊本県宇城市にある三角港。ミスミと読むが、元はミカドか。色々怪しい。



そろそろ〆

ヤマト王権=文身国が豊国秦王国に滅ぼされて王朝交代したからこそ、記紀には倭国のことは何も書かずに秦王国と隋との事は書いているのだ。
旧唐書』によると、倭国と別種の日本国は元は小国という。『隋書』の俀国の「俀」はタイと読み、弱々しいという意味。つまり俀国=小さい国=秦王国。

この投稿は日頃モヤモヤした妄想を書き散らかしてるだけで、オチがない。1つ気になる神社のことを書いて終わろう。

大分県日田市田島に大原八幡宮がある。日田を火田と書けば畑で、秦(ハタ)だ。田島は佐賀県唐津市呼子加部島にある田島神社や福岡県宗像市宗像大社に関係あろう。宗像大社の住所も田島だ。
その大原八幡宮の由緒には

日田の八幡神社の初見は天武天皇白鳳9年(680年)、靱負郷岩松峰(日田市天瀬町馬原金場)に宇佐の鷹の居の社にいます神と名乗る神が現れ、社(鞍形尾の宮)を建てて祀ったことが初めである。
大原八幡宮 - Wikipedia

大原八幡宮は宇佐の神が現れて「鞍形尾の宮」を建てたですと?
鞍形尾とはクラカタウのことではないのか。 535年に大噴火を起こしたインドネシアのスンダ海峡にある火山島の総称クラカタウ。

だんだん日帝の占領工作の情報戦じみてきた。終了。