chayarokurokuroの雑記ブログ

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第31代用明天皇は俀国王の多利思北孤

『隋書』に俀国王「阿毎 多利思北孤 阿輩雞彌」が登場しますが、『新唐書』には「目多利思比孤用明天皇」だという記述がある。このことについての確認と、さらに用明天皇と俀国=秦王国(筑豊・大分)を繋げます。



前回は、遣隋使を派遣した俀国は豊国(筑豊・大分)にあった秦王国だと推測しました。
推古天皇も俀国王=阿毎・多利思北孤・阿輩雞彌も小野妹子蘇我入鹿も小徳阿輩臺=小徳粟田=聖徳太子秦河勝舎人親王も、俀国=秦王国(=豊日別、筑豊・大分)の人物と考えています。



目次



新唐書』について

新唐書』は、618~907年の300年間中国を統一していたの正史です。
1060年の成立で、225巻もある。『新唐書』の他に『旧唐書(くとうじょ)』というのもあります。

新唐書』(しんとうじょ)は、中国の唐代の正史である。五代の後晋の劉昫の手になる『旧唐書』(くとうじょ)と区別するために、『新唐書』と呼ぶが、単に『唐書』(とうじょ)と呼ぶこともある。

北宋の欧陽脩・曾公亮らの奉勅撰[1]、225巻、仁宗の嘉祐6年(1060年)の成立である。

引用元 新唐書 - Wikipedia



新唐書』には日本国についての記述が巻220に載っており、この投稿の一番最後に原文を引用しております。

内容は、それまであった「倭国」は消えておりまして、日本国天皇の系譜が漢風諱号(8世紀半ば以降にできた)で列挙してあったり、阿倍仲麻呂空海など遣唐使のことが書かれていたりしますが、天皇の諱号や系譜(天武が天智の子になっているなど)が『記紀』と一部異なっていたりします。



遣隋使を派遣した目多利思比孤は用明天皇である (『新唐書

新唐書』に以下の記述があります。

欽明之十一年,直梁承聖元年。次海達。次用明,亦曰目多利思比孤,直隋開皇末,始與中國通。次崇峻。崇峻死,欽明之孫女雄古立。

「次用明,亦曰目多利思比孤,直隋開皇末,始與中國通」とある。
用明天皇は隋の開皇末(隋の初代・文帝の末期)に目多利思比孤の名前で初めて中国と外交した、という。『隋書俀国伝』に登場する俀国王(たい・こくおう、倭国ではない)の「阿毎 多利思北孤 阿輩雞彌」だった名前が、『新唐書』では「目多利思比孤」に変わってますが同一人物と考えていいのだろう。

「海達」や「雄古」という、『記紀』とは異なる天皇名になっています。「敏達」と「推古」の書き間違えか、元々はそうだったのかは分からない。



用明天皇とは

記紀』によれば、



蛇足で、中国語でペルシャ人を「波斯(はし)」と言うそうだが、関係がある説も。北魏や隋はトルコ系騎馬民族鮮卑族国家と言われ、また秦の始皇帝の側近にはペルシャ人が居たという。ササン朝ペルシャのガラスだとかが宗像大社沖ノ島から、古墳(新沢千塚など)からも出土。
さらに蛇足で、筑紫君磐井の古墳と考えられている福岡県八女の岩戸山古墳資料館入り口前に磐井の銅像がある。顔つきがソグド人みたいに彫られている。あんな顔していた証拠が何かあるんだろうか?



ということで、「豊日」と名のつく用明天皇こそが遣隋使を送った俀国=秦王国(筑豊・大分)の王・多利思北弧だとします。

『隋書』には「筑紫より以東は俀国に属している」とある。この場合の「俀国」は秦王国ではなく、都を邪馬台国とする本来の「九州倭国」を指していると思いますので、俀国=秦王国はあくまでも倭国に属した国というポジション。
同じように本州四国なども国があり、『梁書』には倭国より東に、文身国、大漢国、扶桑国、女国などの国があったと記している。
関西のヤマト王権倭国ではない。

701年の大宝律令で奈良の一部の地名が「大倭」になり、その後に「大養徳」「大和」と次々に変えている。「大倭」以前は「倭」だったという人がいるが、そんな記録はないし、「倭」は狭い地域を指すものでもない。また「倭」「大和」を無理やり「ヤマト」と読ませるなどの恣意的な操作のせいで、日本の古代を無駄に見えなくしている原因になっている。



新唐書』に天皇の系譜が羅列されている理由

流れとして

  1. 702年の遣唐使から、それまでの「倭国」ではなく「日本国」に変わった(『旧唐書』による)
  2. 唐側は日本国(倭国ではない)の外交官に素性を根掘り葉掘り質問するが、日本側ははぐらかした(『旧唐書』による)
  3. その為、『旧唐書』は「日本国は倭国の別種」とし、別々の国で別けて書いた(『旧唐書』)
  4. 「日本国=大和朝廷」は、712年『古事記』と720年『日本書紀』成立させ、倭国を歴史から削除し、新しい物語に作り替え、適当に系譜を作った(推察)
  5. 8世紀半ば以降の遣唐使天皇の系譜を上表文に書いて、「倭国」と別種であるところの「日本国」の正統性をアピールした(推察)



【参考】新唐書 巻220 列伝第145 東夷 倭・日本

引用元 新唐書/卷220 - 维基文库,自由的图书馆

日本,古倭奴也。去京師萬四千里,直新羅東南,在海中,島而居,東西五月行,南北三月行。國無城郛,聯木爲柵落,以草茨屋。左右小島五十餘,皆自名國,而臣附之。置本率一人,檢察諸部。其俗多女少男,有文字,尚浮屠法。其官十有二等。其王姓阿每氏,自言初主號天御中主,至彥瀲,凡三十二世,皆以「尊」爲號,居築紫城。彥瀲子神武立,更以「天皇」爲號,徙治大和州。次曰綏靖,次安寧,次懿德,次孝昭,次天安,次孝靈,次孝元,次開化,次崇神,次垂仁,次景行,次成務,次仲哀。仲哀死,以開化曾孫女神功爲王。次應神,次仁德,次履中,次反正,次允恭,次安康,次雄略,次清寧,次顯宗,次仁賢,次武烈,次繼體,次安閒,次宣化,次欽明。欽明之十一年,直梁承聖元年。次海達。次用明,亦曰目多利思比孤,直隋開皇末,始與中國通。次崇峻。崇峻死,欽明之孫女雄古立。次舒明,次皇極。其俗椎髻,無冠帶,跣以行,幅巾蔽後,貴者冒錦;婦人衣純色裙,長腰襦,結髮於後。至煬帝,賜其民錦線冠,飾以金玉,文布爲衣,左右佩銀蘤長八寸,以多少明貴賤。

太宗貞觀五年,遣使者入朝。帝矜其遠,詔有司毋拘歲貢。遣新州刺史高仁表往諭,與王爭禮不平,不肯宣天子命而還。久之,更附新羅使者上書。

永徽初,其王孝德即位,改元曰白雉,獻虎魄大如斗,碼硇若五升器。時新羅爲高麗、百濟所暴,高宗賜璽書,令出兵援新羅。未幾孝德死,其子天豐財立。死,子天智立。明年,使者與蝦蛦人偕朝。蝦蛦亦居海島中,其使者須長四尺許,珥箭於首,令人戴瓠立數十步,射無不中。天智死,子天武立。死,子總持立。咸亨元年,遣使賀平高麗。後稍習夏音,惡倭名,更號日本。使者自言,國近日所出,以爲名。或云日本乃小國,爲倭所并,故冒其號。使者不以情,故疑焉。又妄誇其國都方數千里,南、西盡海,東、北限大山,其外即毛人云。

長安元年,其王文武立,改元曰太寶,遣朝臣真人粟田貢方物。朝臣真人者,猶唐尚書也。冠進德冠,頂有華蘤四披,紫袍帛帶。真人好學,能屬文,進止有容。武后宴之麟德殿,授司膳卿,還之。文武死,子阿用立。死,子聖武立,改元曰白龜。開元初,粟田復朝,請從諸儒受經。詔四門助教趙玄默即鴻臚寺爲師,獻大幅布爲贄,悉賞物貿書以歸。其副朝臣仲滿慕華不肯去,易姓名曰朝衡,曆左補闕,儀王友,多所該識,久乃還。聖武死,女孝明立,改元天平勝寶。天寶十二載,朝衡復入朝。上元中,擢左散騎常侍、安南都護。新羅梗海道,更繇明、越州朝貢。孝明死,大炊立。死,以聖武女高野姬爲王。死,白壁立。建中元年,使者真人興能獻方物。真人,蓋因官而氏者也。興能善書,其紙似繭而澤,人莫識。貞元末,其王曰桓武,遣使者朝。其學子橘免勢、浮屠空海願留肄業,曆二十餘年。使者高階真人來請免勢等俱還,詔可。次諾樂立,次嵯峨,次浮和,次仁明。仁明直開成四年,復入貢。次文德,次清和,次陽成。次光孝,直光啟元年。

其東海嶼中又有邪古、波邪、多尼三小王,北距新羅,西北百濟,西南直越州,有絲絮、怪珍云。

流鬼去京師萬五千里,直黑水靺鞨東北,少海之北,三面皆阻海,其北莫知所窮。人依嶼散居,多沮澤,有魚鹽之利。地蚤寒,多霜雪,以木廣六寸、長七尺系其上,以踐冰,逐走獸。土多狗,以皮爲裘。俗被發。粟似莠而小,無蔬蓏它穀。勝兵萬人。南與莫曳靺鞨鄰,東南航海十五日行,乃至。貞觀十四年,其王遣子可也余莫貂皮更三譯來朝。授騎都尉,遣之。

龍朔初,有儋羅者,其王儒李都羅遣使入朝,國居新羅武州南島上,俗樸陋,衣大豕皮,夏居革屋,冬窟室。地生五穀,耕不知用牛,以鐵齒杷土。初附百濟。麟德中,酋長來朝,從帝至太山。後附新羅

開元十一年,又有達末婁、達妒二部首領朝貢。達末婁自言北扶餘之裔,高麗滅其國,遺人度那河,因居之,或曰他漏河,東北流入黑水。達姤,室韋種也,在那河陰,凍末河之東,西接黃頭室韋,東北距達末婁云。