chayarokurokuroの雑記ブログ

読書記録、書評、歴史(九州倭国説)など

吉備津彦は南九州出身である(完全妄想

いつものごとく妄想。今日は吉備津彦は南九州出身という思いつき。



日本書紀』で、第10代崇神天皇時代に「四道将軍」というのが登場する。そのうちのひとりに吉備津彦がいる。
参照 吉備津彦命 - Wikipedia

吉備津彦は、第7代孝霊天皇皇子、四道将軍のひとりとして西道に派遣されたことになっている。
本名を「ヒコイサセリヒコ」という。

  • 古事記

    • 本名: 比古伊佐勢理毘古命(ヒコイサセリヒコのミコト)
    • またの名: 大吉備津日子命(オオキビツヒコのミコト)
  • 日本書紀



  • 父: 第7代孝霊天皇
  • 母: 倭国香媛(やまとのくにかひめ)。別名を絙某姉(はえいろね)、または、意富夜麻登玖邇阿礼比売命(おほやまとくにあれひめのみこと)





ここまでざっと見てきて、南九州に関係しそうな単語がたくさん出て来ていることに気がつきます。

まず、名前のヒコ「伊佐」セリヒコ。「伊佐」と言ったら鹿児島の伊佐市や焼酎の伊佐錦とかでしょ~、南方の香り。

次に、吉備津彦の母親の名前、倭国香媛(やまとのくにかひめ)。別名を絙某姉(はえいろね)。
「ハエ」というのは「隼人」とか「南風(ハエ)」などと関係していると思う。他に人名で「葉江」「波延」、第26代継体天皇妃「荑媛(ハエヒメ)」、第24代仁賢天皇妃「葛城蟻臣の娘・荑媛(ハエヒメ)」など。

地名で他にハエ・ハヤと関係しそうなので思い付くのは、長崎県諫早(イサハヤ)、福岡県みやま市(旧山門郡)の飯江川(ハエ)、朝鮮半島の大加羅の伴跛国(ハヘ、ハエ)。

そして、四道将軍派遣に際して吉備津彦吾田媛を討ったこと。

これらの「イサ」「ハエ」「アタ」などは薩摩隼人や阿多隼人に関係するだろう。のちの「大伴氏」と呼ばれる氏族はこの系統じゃないかと自分は考えている。朝鮮の伴跛国(ハエ)も大伴氏とたぶん関係がある。筑紫君磐井も。大伴金村の息子の大伴磐は筑紫の政事を任されるが、筑紫君磐井っぽい。『筑後国風土記』の逸文筑後の老人が破壊された石人と現地民の跛(びっこ)を関連付けて語っているなど。



鬼界カルデラ噴火以降、今から6000年前に九州に入ってきたオーストロネシアとかポリネシアとかなんちゃらネシア系の南方海洋族系縄文人をベースに騎馬民族ミックス。
肥前風土記』だったと思うが、「五島人(長崎県)は顔つきが隼人に似ており騎射を得意とする」とあったような。トルコ系騎馬民族も入ってるんじゃなかろうか。琉球人も目が深く鼻が長いと中国史書(どの書か忘れた)にたしかあった。南インド系は馬に乗ってた?



で、最初に戻りますけど、なぜ吉備津彦が南九州出身と思ったか。

四道将軍」は『古事記』には出てこず『日本書紀』にのみ出てくる。創作だろう。九州には派遣されておらず、関西は弥生・古墳時代初期に全国へ軍団を派遣できる能力があったとは考えにくい。そういう事ができるとすれば鉄器で武装していた九州からだ。

そう考えると、じゃあ吉備津彦も九州人かとなる。
日吉神社」の「日吉」は第二次大戦前までは「ヒエ」と呼んでいたそうな。大戦後にすべて「ヒヨシ」に改めた。
「吉」は「エ」と読める。

ならば、「吉備」は「エビ」と読める。九州でエビと言ったら宮崎の「えびの市」か。「エビ」は「えびす」、漢字で「夷」の事とすれば、宮崎県小林市の古代に「夷守(ひなもり)」があったから、なにか関連があろう。



『魏書』(魏志倭人伝)に、「伊都国から東南に100里で奴国」とあり、福岡県福岡市西区から春日市のあたりがそこに当たると考えられている。須玖岡本遺跡など。
奴国の長官は兕馬觚(じまこ?)といい、 次官は卑奴母離(ヒナモリ)という。はい、宮崎県小林市の夷守(ひなもり)と同じのが出てきました。

後漢書』には、「古(いにしえ)の倭奴国は倭の最南端」とある。九州の一番南なんだろう。鹿児島・宮崎だろう。えびの市とか小林市とか串間市とか伊佐市でもいい。あの辺が古い時代の奴国のあった場所か。福岡市周辺の奴国は南九州の勢力が作ったんだろう。知らんけど。



6世紀、第28代宣化天皇(26代継体の子)時代に、熊本県葦北郡(あしきた)や八代(やつしろ)を治めていた「火葦北君刑部靫部阿利斯登(ひのあしきたのきみおさかべゆげいありしと)」という人物がいる。『先代旧事本紀』「国造本紀」によると、吉備津彦の子の三井根子が火葦北国造に任命されたらしく、その五世だとか。

ここで不自然に吉備津彦の名前が出ている。もともと南九州の出身ならさほど不自然ではないかな。熊本県の鴨籠古墳の石棺にあるような直弧文と岡山県千足古墳の直弧文、楯築墳丘墓の弧帯文とか、関連が強い。



奈良県桜井市箸中の箸墓古墳の被葬者は宮内庁的に、吉備津彦の兄弟の倭迹迹日百襲姫命(ももそひめ)だという。吉備系の特殊器台が出土しているようですし岡山県勢と関連。
崇神天皇四道将軍卑弥呼時代としたい人なら、箸墓古墳を3世紀半ばにしたいでしょうね。



最近騒ぎになった、佐紀古墳群の西にポツンとある巨大円墳の富雄丸山古墳、その円墳の真ん中ではなく、造り出し部分から巨大な蛇行剣と鼉龍文盾形銅鏡などが発掘された件

日本で出土する蛇行剣はほとんど南九州で、奈良は宇陀市にかたまっているとか。造り出しの被葬者は宮崎県か鹿児島県民ですよね。知らんけど。

箸墓古墳から少し南に大和川が流れている。それをさかのぼると宇陀市。一帯は大和水銀鉱山がある。

古の倭奴国の南九州と福岡市周辺の奴国、岡山吉備、纏向・宇陀の関連性が何か見えて来ません?
奈良に邪馬台国があったとは到底考えにくいが、古い九州倭国倭王の系統が奈良に入って行った感じはあるかなと。奴国は丹国よ。に。