chayarokurokuroの雑記ブログ

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磐井と丹波と庭、高良山神籠石は筑紫君磐井が作った?

妄想を思い付いた。書き散らかします。



筑紫君磐井(石井)の磐井とは何か?

古事記』では「筑紫君石井」、『日本書紀』では「筑紫国造磐井」という名前で登場する6世紀前半の人物。『日本書紀』で継体天皇と戦う反逆者のように書かれている。北部九州を押さえていたようで九州王朝説系の人たちは倭王と考えていたりする人物でもある。
彼の名前にある「磐井」は名字のようなものではなく、名前だろう。 「国造」はこの時代に存在しないようだからデタラメだ。
筑紫君磐井の息子は『日本書紀』に「葛子」というのが登場する。その他の史料には「筑紫火君」「筑紫火中君」などが居たようです。倭人はお偉方から平民まで一夫多妻だったようですし、この他にも子供が沢山いたと思うがそれは置いておき、「石井」「磐井」とは何なのか。今回はこれについての妄想。



「石井さん」と「筑紫さん」

「石井さん」に関しては、北部九州に九州千葉氏の流れで肥前石井党というのがあり、現在おられる石井さんや磐井さんはこの系統だと思います(適当)。古代に直接繋がりがあるかは、1500年も前だし不明。反逆者扱いなので仮に子孫がいたとしても正体を隠して生きなければならなかっただろう。お偉いさんも大変ね。

「筑紫」さんに関しては古くは「筑紫君」「筑紫三家連」「筑紫史」などの氏族があり 、中世の戦国武将の筑紫広門やらの「筑紫氏」は太宰少弐(武藤)氏が名乗ったとか何とかで、いまいちハッキリしない。
日田の曹操の鏡を持っていた氏族は「筑紫史」の流れではなろうか。『新撰姓氏録』によると、曹操の五男の末裔だとある。「筑紫君」もこの血を引いてるかも知れない。一夫多妻だし。邪馬台国筑後川周辺にあったからこそそのような氏族がいて、あのような鏡が出るのでしょう。日本最古の豪族居館跡なんかもありますから。

で、『古事記』は「石井」で『日本書紀』は「磐井」。これらの人名は歴史関連の史料に載っていないようです。
それっぽい人名が居ないかなぁーと探すと思い浮かぶもの、高良大社神職に5姓あるといい、その1つに「丹波」氏がある。「石井・磐井」と「丹波」じゃ全然違うじゃんと一見して思うが、これがちょっと引っ掛かる。まずはここから妄想を拡げる。



石井と丹波と庭

石井と丹波

「丹」は「ニ」や「タン」と読み、水銀朱を表します。象形文字としては井戸に結晶化した水銀朱が点で現れている形を示す。つまり「石井」は「丹」のことではないのか?
そうすると、高良大社神職5姓に「丹波」氏がありますので、「石井」=「丹波」の事ではないかと思った。で、次。

人名で「丹波」と言えば、『日本書紀』に四道将軍が出てきます(「古事記」には出てこない)。四道将軍の一人に丹波道主がいる。丹波道主の妃や子は史料によってバラバラでハッキリしないが、さっと書き出すと

日本書紀』では

  • 日葉酢媛
  • 渟葉田瓊入媛
  • 真砥野媛
  • 薊瓊入媛
  • 竹野媛

古事記開化天皇段では

    • 丹波之河上之摩須郎女(たんばのかわかみのますのいらつめ)
    • 比婆須比売命
    • 真砥野比売命
    • 弟比売命
    • 朝廷別王



高良山周辺の地名に少し詳しい人なら気になる名前がいくつか並んでいます。

  • 「真砥野」: 「マトノ」と読み、「円野」とも表記。「的(いくは)」のことだ。佐賀神埼や浮羽(うきは)にある地名。武内宿禰の子とされる葛城襲津彦の末裔にもある「的臣」関係するだろう。「松野」や「松浦(末羅)」のマツとも関係あるか。

  • 「竹野媛」: 垂仁天皇の妃の一人でもある竹野媛。関係ありげな住所として福岡県久留米市田主丸町竹野。田主丸町は元は浮羽郡。上記と同じ地域。
    (追記: 明治初期に竹野郡があったが生葉竹野郡に変わり、明治29年浮羽郡が発足と同時に竹野郡は廃止。現在は町名として竹野町が残っている。)



  • 丹波之河上之摩須郎女」: 「河上」と来れば佐賀市大和の與止日女(よどひめ)神社=川上(河上)神社が思い浮かぶ。高良山から35キロ。奈良時代以後に肥前国庁が置かれた場所の近くで、住所も大和(ヤマト)。最寄りの高速インターの名前も佐賀大和。
    卑弥呼の墓説のある高良山ふもとの「祇園山古墳」の被葬者は、高良下宮社にある石碑には「髙良宮宿禰神室加輪髪媛高貴」と書かれている。「加輪髪媛」は「カワカミヒメ」と読める。
    この石碑は渡邉何とかさんの記名で最近作られた物で信憑性はアレだが、丹波之河上のなんちゃらさんと無関係ではなさげ。

丹波道主の娘の竹野媛の旦那である垂仁天皇は名前が「イクメ」で、邪馬台国の官僚の「伊支馬」に似ている。
四道将軍的な軍団を弥生~古墳時代初期に全国へ派遣できるとすれば、鉄器で武装している九州からしかないだろう。奈良や関西からの可能性は無い。しかも四道将軍は九州に派遣されていない。



丹波の道

丹波道主の「道」とは何だろうか? 北部九州で「道」と言えば、福岡県福津市にある「光の道」の宮地嶽神社か、宗像市にある「海の道」の宗像大社か?こっちは「道主貴」でモロ。
また、飛鳥~奈良時代初期に「道首名(みちの おびとな)という人物がいる。大彦の末裔という阿倍朝臣で姓は君。筑紫君と同祖。阿倍朝臣・道君・首名という。北陸出身者の貴族らしく、筑後守と肥後守を兼任。継体天皇と関係あるのか。越国造も阿倍氏

他の「道」で浮かぶのは「田道間守」。「タジマモリ」はたぶんだが、佐賀県唐津市呼子町加部島の田島神社あたりで駐在の役人をしていた家柄かなにかと考えている。壱岐~松浦航路で港だったと思う。感染症対策でひと月ほど滞在させていたらしいので港は島が良い。
「田島守」

岩戸隠れしたアマテラスをアメノウズメ(『古事記』天宇受賣命、『日本書紀』天鈿女命)が裸踊りで誘き寄せ、手力男命が引き吊り出す。手力男は田道カラ男だ。ダジマモリはアメノヒボコの末裔としてある。だから手力男=田道カラ男だ(妄想)。

高良大社神職5姓のうちの草壁氏は日応子の末裔でもあるという。新羅王族の始祖と多婆那國とも関わりありそうである。
新羅第4代で昔氏始祖でもある脱解尼師今(タルヘ、タレ、イサグム。だっかいにしきん)。昔脱解でソク・タレとよむ。息長をソクタレと読むと北部九州と神功皇后の関係性が何となく見えてくる。



丹と庭

邪馬台国有明海の周辺にあったと考えている。邪馬台国倭国の都だ。『隋書』は筑紫の東に秦王国があるという。その国は筑豊・大分にあり、6世紀半ばに倭国から独立した国で、初代王は欽明天皇だと考えている。

欽明天皇の和風諱号を「天国排開広庭天皇」という。「庭」がつく。「にわ」と読む。丹羽だろうか。丹羽はタンバとも読む。「丹羽氏」の苗字の由来は古いものだと神八井耳命の末裔で尾張の丹羽郡の縣主にあったとか。神八井耳命は熊本の阿蘇の開拓者で多氏の祖とされる。

石井、丹波、庭(丹羽)、全部「丹」が関係しそうじゃないか。邪馬台国?は丹朱が採れる。
瓊瓊杵尊(ににぎ)や崇神天皇の和風諱号「御間城入彦五十瓊殖天皇」につく「瓊」は赤い玉のことで、辰砂を意味するとも言われる。富の象徴として、王国の財源としての丹。その名を冠する人物たち。

水銀は大きな公害病を引き起こしたこともあり、あまり触れたくない事柄かも知れない。日本人は大昔から辰砂を使っていたようで水銀朱の塗られた縄文土器縄文時代の装飾品などが各地で出土している。また中国史書には「倭人は中国人が白粉を塗るように朱を塗る」と書いている。それから弥生~古墳時代の貴人の墓には朱が塗られている。奈良の大仏を作った時にも金メッキで水銀を使った。水銀アマルガムという技法。

水銀は自然界では硫化水銀として石の中に混ざったり赤い玉状に結晶化して存在する。「丹」「朱」「辰砂」「丹砂」などと呼ばれ、熱水鉱床でお湯と一緒に地表に上がってくる。水銀を産出する所ではマンガンや金も採れる事が多いという。

日本で水銀鉱山があるのは中央構造線と呼ばれ日本列島の背骨にあたる地域に集中するという。大己貴や少彦名は日本各地の温泉場の神社にセットで祀られてあることがよくあるそうだが、温泉のある所を探すと辰砂を手に入れやすいという事だったんだろう。3万8000年前から石器を探して回っていた古代日本人から受け継ぐものや渡来人のもたらした知恵と知識か。

石井のつく地名

今度は「石井」が地名を表すと考える。古い地名ではなく、横着して現在の地名で探すのであまりあてにならないとは思うが。
筑紫君磐井の墓がある福岡県南部筑後地方周辺をざっと検索すると、筑後川を登って大分県日田市石井町がある。筑後川温泉、原鶴温泉日田温泉天ヶ瀬温泉、お湯はよく出る。
筑紫君磐井の孫?に大石麿という人物がいたようで(出典不明のネット情報)、日田から下った浮羽に筑後大石がある。何か関係あるんだろうか。気のせいか。

【追記】
大分県日田市高瀬に、福岡県八女の岩戸山古墳にあった石人がある。幕末に移したものらしい。場所は日田市立南部中学校のすぐ南西で、Googleマップだと「石人」と表示。ここから西に7キロ下ると日田市石井に石井大明神社という神社。日田の石井と筑紫君磐井は何か関係ありそうだ。【追記おわり】

あと思い浮かぶのは四国徳島の吉野川流域。徳島県名西郡石井町高川原字高川原。ここから若杉山辰砂遺跡まで南へ40キロ。吉野川流域は天然温泉がいくつかある。



石井を石幷にしてみると神籠石の建造者

辰砂関係の話は終わりまして、ここからは古代山城説の遺跡・神籠石について妄想する。

日本古代に作られた神籠石系山城(こうごいしけいやましろ)と呼ばれるものがある。巨石の磐座の方ではなく、山を数キロに渡って石で取り囲んだもの。機能としては古代の山城と考えられているようで、「神籠石系山城」と呼ばれます。主に北部九州と瀬戸内海沿岸にあり、記紀などには建造に関することは載っておりません。

歴史学上で神籠石論争というものの発端となったのが福岡県久留米市にある高良山神籠石(こうらさんこうごいし)ですが、高良大社の公式Webページには年表に筑紫君磐井の乱の頃に作られた?と疑問符つきで書かれてある。528年頃。歴史学者は7世紀などと言っている。解明は時期尚早と放置されている。
関西には大阪に高安城がたった1つあるのみですから触れたくないのでしょうか。

高良大社のある高良山のふもとに高城(たかぎ)神社があり、高皇産霊神を祀っている。その由緒いわく、もともと高良山の地主神は高皇産霊神だったようだが、現在高良大社の祭神である高良玉垂命に一晩宿を貸したら結界を張られて高皇産霊神を戻れなくしたと。つまり乗っ取られたと。その時の結界が神籠石だとする説があります。恐らくこの話は4世紀の話だと思います。4世紀に神籠石で使われる切り石があったら、古墳にも使っただろう。4世紀では早すぎて時代が合わない。

筑紫君磐井の頃の6世紀だと、精巧な石棺や石人石馬を作る技術があるので可能性はある。また磐井は福岡や佐賀県内のあちこちに砦や城を築いた話もある。
という事で、高良大社の年表の件とあわせて、神籠石系山城は筑紫君磐井が作ったとしよう。

「石井」の「井」を「幷」に置き換えてみる。漢字を書き間違えそうでしょ。
「幷」は「へい」とよみ、「並」のことで、「ならべる」とか「あわせて」という意味。

すると、「石井」は「石を並べた」という意味になる。おお、神籠石の列石のことではないか!
したがって、神籠石系山城の建造者は筑紫君石井改め筑紫君石幷とわかった。証明終。

瀬戸内海まで筑紫君磐井の力が及んでいることになってしまうが、倭王だったなら有り得なくもない。

どうしよう、あとはよろしくお願いします。終了