筑紫君磐井の正体と、磐井の乱、継体天皇擁立の背景を倭国九州説を前提にみていく。メモ
日本書紀に以下の部分があります。
秋八月辛卯朔。
詔曰
「咨大連。惟茲磐井弗率。汝徂征。」
物部麁鹿火大連再拜言
「嗟、夫磐井西戎之姧猾、 負川阻而不庭、憑山峻而稱亂、 敗德反道、侮嫚自賢。 在昔道臣爰及室屋、助帝而罰拯民塗炭。 彼此一時、唯天所贊、臣恆所重。能不恭伐。」
継体天皇が物部麁鹿火に対して「磐井を討て」と命じ、麁鹿火は「磐井はロクでもない奴だ。道臣から室屋まで帝に尽くしてきた。ケチョンケチョンにしてやります!」というシーン。
通常の訳を逸脱して読んでみる。
惟茲磐井弗率
- 原文
- 「惟茲磐井弗率。汝徂征。」
- 「惟茲磐井弗率。汝徂征。」
- 訳
- 「茲(ここに)磐井(いはひ)率(したが)は弗(ざ)るを惟(おもほ)せば、汝(いまし)徂(ゆ)きて征(う)つべし。」と通常は読み、
- 意味
- 「磐井が従わないから汝が行って討て」
という意味だそうだが、「惟茲磐井弗率」を一つの単語と解釈してみる。
「惟茲」
薩摩の島津氏などは漢の皇帝の末裔を自称し基を「惟宗」氏という。「惟茲」もその類いとしてみる。
少し後の時代、崇峻天皇なる人物は蘇我馬子に暗殺されたことになっているが、その暗殺実行犯を東漢直駒という。そしてその父の名を東漢直磐井という。東漢磐井は筑紫君磐井のことを匂わしているのか。
「磐井」は姓が君から国造に捏造され、遂には直にまで下がっている。日本書紀の編者は磐井によほど怨みがあるのか、又は筑紫君磐井の末裔でもなければいくらなんでもここまでボロカス扱いはしないな…
倭国の中心だと考えられる高良大社の宮司は「丹波」「物部」「安曇」「草壁」「百済」の五姓が、五摂家よろしくあったという。丹波氏はおそらく後漢の皇帝の末裔で、関西の丹波の地名はこの丹波氏から来ている。後の坂上田村麿などもこの系統だろう。江戸時代の久留米藩は有馬氏だが丹波国福知山藩から移された。もとの鞘に…
ということで、日本書紀は「磐井は東漢氏」だとヒントを与えていると解釈した。
「磐井弗率」
これも単語的に解釈する。
「磐井」は高良大社の大宮司の「大祝」の立場を指しており、「弗率」は一大率や大宰帥と同じく「弗(物部)」「率(帥)」、つまり倭国の物部大宮司家の総大将を指していると考える。
「磐井弗率」は物部の大祝という役職名であり、本名ではない。「磐井」という人物名が高良玉垂神秘書や各大宮司家文書、福岡県神社誌の関連資料等に載っていると言う人がどうもいない。別の名で載っているという。
「侮嫚自賢」
麁鹿火の磐井に対する悪口の部分は一説によると漢文の定型文で使われる文章だという。
- 原文「侮嫚自賢」
- 読み「侮嫚(あなづ)りて自(みづから)賢(ひじり)とす。
これを賢さ自慢と捉えず、実名を指していると解釈する。つまり筑紫君磐井の実名は「賢」を含む。原本未確認だがネット情報によると高良大社関連文書に「賢」を含んだ人名が幾つか並んでいる。「賢天皇なんとか」みたいな名前。
高良大社の宮司家の「物部氏」は勢いがあり、それまで筆頭だった丹波氏に変わって大宮司になったという。 さらに物部大宮司は神代(くましろ)氏、鏡山氏、宗崎氏に別れる。時代は未確認。
神代氏は西暦1000年頃に武家化し1500年頃に佐賀の金立(きんりゅう)の辺りに移り住む。帯隈山神籠石の近くの白髭神社の裏山に歴代の墓地がある。
鏡山氏は田川市の香春神社や唐津の鏡山に関係している。
宗崎氏は印鑰神社の統轄。倭国の国璽や倉庫の鍵の管理者だったのだろう。
私は宗崎氏=蘇我氏と考えている。証拠は八代の印鑰神社が蘇我石川宿禰を祀ってる以外、未だ確かなものはない。
磐井の乱(527年)から約半世紀前に洪水が起こったそうで、筑紫君磐井と蘇我稲目が治水工事をやっていた記録があるのだとか。そのとき水利の利権で磐井と稲目の間に悶着があったらしい。両者とも倭国の物部氏の統轄者同士。ちょうど蘇我氏が台頭してくる時代だから、磐井の乱の実態はやはり倭国内の体制変化を指しているのだろう。
継体天皇擁立
継体天皇の名前を袁本抒(おほど)という。正体不明とよく言われる。「袁」から連想して袁術や袁紹の袁氏だと考えている人もいる。
福岡県久留米市の高良大社の西に三潴(みずま)という場所があります。高良大社の祀る高良玉垂命が元々いた大善寺玉垂宮のある所で、天皇屋敷などと呼ばれていたという。
三潴に三沼君という人物がいたことが記紀の景行天皇の所にあります。アマテラスを岩戸から引き摺り出す時に裸踊りをしたアメノウズメのご主人猿田彦の末裔だといい、宗像神と関わる。三沼君を猿大海という。
継体の袁本抒と猿大海はエンがあるだろう。
福岡県や佐賀県には宗像大社のお膝元の割には宗像神を祀る神社が意外と少ない。感覚的にほとんど無く、実際に全国平均以下だとか。蘇我氏は宗像氏と一緒に台頭してくるように思えるが、継体もそこに加わっていただろうと考える。
継体擁立の際、大伴金村と物部麁鹿火、忍者のようなキャラの河内馬飼首荒籠が関わっている。
大伴と物部は倭国の中心メンバーとする。そして河内馬飼の「河内」を地名と解釈し、筑後に有力そうな場所というと。あります。
福岡県みやま市(旧・山門郡)瀬高町河内。
邪馬台国九州説の候補地でよく名前の上がる場所で有名です。
田油津姫がいて、女山(ぞやま)神籠石があり、物部氏族が複数いて、太神(おおみわ・おおかみ・おおが)宮やこうやの宮、森山宮、たぶん高田行宮があった場所で(三池立花藩は大牟田だと断定したが違うと思う)、飯江(はえ)川が流れ(大伴と関係)、大江の地名と若い頃の天智天皇の伝承があり、七支刀が元あった場所と考えられ、石上神社があり(石上はここが原点かも)、九躰皇子神社もあり、異常に神社が密集した地帯。
「河内」が草壁・日下と関連付いているのは、草壁が筑後の発祥で高良大社の宮司家に草壁氏があるからだろう。河内王なども大阪ではなく、みやま市瀬高の河内から。
大伴・物部・河内(瀬高の)が宗崎(蘇我)・三沼君・宗像君を担いだというのが継体擁立の意味だった。
筑紫君磐井の岩戸山古墳と相似形で阿蘇ピンク石の石棺を持つ今城塚古墳の継体、そして継体の故郷の越国の後の国造は阿部氏(安曇氏)。関係者は元はみな倭国、筑後の有力者で占めている。
追記
宗崎氏は高知県に多いようだ。高知と言えば長宗我部氏ではないか。